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2021年04月15日

閉鎖独占の育児からの離脱

今回は、育児という観点で集団の在り様に焦点を当ててみたい。

昨今、過剰保育つまり親や教師の過干渉が子供の自立性や活力を奪っているという問題が顕在化している。もはや子供の意識としてはこれらの「圧力」は当たり前の所与のもので逃れられないものとして捉えられてしまい、反抗する意識さえ失っているという。これは素直さに潜んだ由々しき問題である。心を閉ざし、果ては本来十全に機能するはずの本能の発現さえ衰弱してしまっているのである。

生物進化上、特に哺乳類以降は、外敵からの防衛の必要から体内である程度成長してから出産するという胎生に進化した。そして、本能機能としても出産後生体になるまでは様々な生存課題を学習によって機能を獲得している。主として、子供同士のじゃれあいなどの遊びの行為の中で疑似闘争の経験を積んで学習していくのである。人類に置き換えれば、「育児」ということとなるが、現代では、その育児を一人の母親や独占的地位の担任教師に委ねられ(押し付けられ)、しかもその内容は閉鎖独占という価値に歪んだものに堕してしまっている。例えば学歴信仰などもその一つであろう。

そこから離脱しなければ本来の共同体的な社会へは移行できない。特定の立場のものに育児の責任を押し付けることから脱する必要があるし、子供の側からすれば、安心して依存できる場があればそれ事足りるのである。

今回もそういった可能性を示唆する記事を紹介したい。

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江戸時代の子育て~仮親と子育てネットワーク (2)地域ぐるみの子育て

■宮参りで地域に仲間入り

赤子がはじめて地域とかかわりを持つのが「宮参り」であった。氏神をお参りして赤子を氏子にしてもらう儀式で、これを機に村の一員となった。

時期は一定しないが、平均すれば生後約30日で、早ければ生後7
日、遅くても100日にはすませた。また、生後100日目には、赤子に飯を食べさせる真似をする「食初」の儀式を行った。食初前は一人前の人間とみなさなかったため、食初前に死んだ子供は、墓ではなく家の大黒柱の根元に埋めることが多かった。無事に初正月を迎えた子供は、男子には破魔弓、女子には羽子板や手鞠を贈った。三月の節句は今では女子の行事になっているが、本来は男女とともに祝うので、妻の実家や親戚からは雛人形、近所からはこれらを描いた掛軸などが贈られた。三月のひな祭りに代えて「八朔(8月1日)」に雛人形を贈って初節句の祝とした地域もある。
五月の節句も、男女共通の祝事として雛人形や鯉のぼりが贈られた。

これらの祝儀には、取り上げ親などの仮親が招待された。また、これらの節句には村の「若者組」が子供の成長を願って凧を贈り、凧揚げをした地域も多い。誕生から満一周年の「初誕生」には誕生餅をつき、氏神におまいりした。「餅負い」といって、子供に祝い餅(力餅・立餅)を背負わせてわざと転ばせたり、子供に丸餅を背負わせて歩けなくなるまで餅の数を増やす地域もあった。

三歳の「帯祝」以後は、帯を締める正式な着物に替え、神事や参詣に参加した。また、頭髪を結い髪にする「髪置」もこの頃行った。さらに、五歳の「袴着」を経て、七歳の祝いを済ませた子供は地域の子供組に加わった。

■地域の教育組織(子供組・若者組・娘組)

一定年齢から一定期間加入する「子供組」「若者組」「娘組」などの集団が各地に存在していた。これらはいずれも同世代の青少年が集団生活や共同作業を通して教育・訓練される社会教育組織であった。

たとえば「子供組」は、普段は遊び仲間と変わらないが、年中行事や祭礼の際には特定の役割を果たした。最年長の指揮によって行動し、厳しい上下関係や一定の掟の中で指導・教育され、掟を破れば仲間はずしなどの制裁もあった。

また「若者組」は、構成年齢や組織形態がさまざまだが、おおむね15歳以下の成年式を終えた青年が加入する組織で、加入の際には保証人となった先輩・知人に付き添われて「若者宿」などの集会所へ行き、リーダーや先輩から掟を聞かされたうえで杯をかわし、正式な加入が認められた。新米のうちは雑用や使い走りをさせられ、さらに先輩から徹底したしつけや教育を受けることで、子供心を拭い去って自立した大人へと成長していった。

若者組は、地域における祭礼や芸能・消防・警備・災害救助・性教育・婚礼関係などに深くかかわり、その責任も裁量も大きなものだった。いったん若者組に加入すれば内部事情は一切口出ししない決まりで、周囲の大人たちも口出しすることは無かった。

このように、江戸時代の子供たちは、大人の仲間入りをするまでの間、様々な人々との重曹的な関係や集団の中で育てられたのであり、そこには大勢の人間が深くかかわって一人の子供を育て上げていく、網の目のような教育システムがあったのである。

 

非合理としての育児―本源性を充足させる日本の育児方法①

日本の昔からの育児方法について興味深い記事を引用します。
合理的か―西洋の観念から生まれた育児方法と人の本源性を充足させる日本の育児方法。
今、どちらが必要とされているのかを考えさせられます。

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霊長としてのヒトは、その先祖であるサルと同じように、触れ合うことで他者との関係を築いてきた。そして、サルの毛づくろいであるグルーミングにその姿の原形を見ることができるように、人と人が肌を触れ合うことは、良くも悪くも強い情動を伴うものであり、人類はそれを本能的ともいえるやり方で用いてきた。
ところが、文明が急激に発達した十九世紀ごろからは、人と人との触れ合いばかりでなく、親子の触れ合いまでもが薄らいでいった。それは近代化、すなわち合理化を目指す現代文明のしわ寄せが、育児にも訪れたからに他ならない。これまで重視されてきた、温かい愛情をたっぷりとかけることや、いつもそばにいて触れることは、非合理的なやり方だとして否定されるようになった。
二十世紀に入るとさらにこの傾向は強まった。アメリカの行動主義の先駆者である心理学者のワトソン(一八七八-一九五八)も、子どもに触れない育児法を推奨した。行動主義というのは、子どもを把握する上で手がかりになるのは行動のみであるという考え方をする。だから子どもの欲求や感情といった内面的なものは、まるで存在しないかのように切り捨てたのである。彼が一九二八年に出版した本には、「子どもに抱っこやキスをしないこと。あなたの膝の上に座らせないこと。もしどうしてもキスする必要があるなら、おやすみ前に一度だけキスしてもよいでしょう。でも朝になって、おはようと言うときは握手にしなさい」と書かれている。子どもを機械やロボットのように扱い、両親は子どもに対して、愛や慈しみなど、情緒的なものは与えるべきではなく、理性的判断に基づいて接するべきである、と主張したのである。

さて、このような触れない育児法で育った子どもは、その後どうなっただろうか。五年から十年ほど経つと、次第にその影響が現われはじめた。子どもを巡るさまざまな問題が、社会問題として浮かびあがってきたのである。
たとえば、アメリカの心理学者プレスコットは、不安や抑うつが非常に強く、また他人と良好な人間関係を築けない子や、感受性に乏しく、周囲のことに関心をもてないような子どもが増え、成長してからも多くの問題を次々に起こすようになってしまったと指摘している。
もちろん、これらのすべての原因が行動主義に基づく育児法にあるといっているわけではない。しかし、心が最も成長するこの時期に触れられなかったことが、その後の心の問題に深く関わっていたであろうことは、これから示すデータでさらに明らかになるはずである。

それでは日本ではどうだったのだろうかといえば、伝統的に「べったり育児」が行われていた。母子密着型の育児法だ。家事をするときもほとんどおんぶひもで背中に密着させていて、自分が抱けないときは必ずといってよいほど祖母が抱っこして世話をしていた。また夜はひとつの部屋に両親と子どもが「川」の字になって添い寝をしていた。当然母乳を、それも子どもの求めるままに与え、片時も離れることはなかった。
もっと昔の育児法をみてみると、さらに積極的なスキンシップをとっていたようだ。江戸時代までは「小児按摩」といって、赤ん坊へのマッサージも日常的に行なわれていたようである。
そんな日本の伝統的な育児法も、明治から戦後にかけて欧米から入ってきた科学的育児法によって、非科学的であるとして否定されていった。赤ん坊が泣いても簡単に抱いてはいけない、放置しておくことで人間的な自立を促す、という前述したあの育児法に取って代わられたのである。
(『子供の「脳」は肌にある』 山口創)

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