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2021年07月15日

共同体社会の仕組みはどうなる? -6

今回は、社会にとって必要な情報をどう共有していくかを探りたい。

現在の各種報道機関においては、それぞれの利権に基づくバイアスがかかり、まともな情報とは限らない。メディアリテラシーとして、受けて側に取捨選択させてその責任を負わせる論理は本末転倒である。情報の発信側が責任を負うべきものというのが本筋であろう。そして、判断の単位が個人に還元されてしまったことで隠ぺい、ごまかしのつけ入るすきが生まれてしまう。

一方で、普通の人が普通に発信できることが当たり前になってきた。まだまだ、社会を動かし、統合していくような仕組みではないが、上位下達の構造ではなく、まさにネットワーク構造が必要に応じて、あるいはその注目度に応じて広がっている。共同体を核とした社会こそ、そのような広がりが適しており、その単位として共同体がある。災害時の情報はもちろん、生活、生産などの課題に関する方針、連携、取引などのシステムとしてのプラットフォームがあれば事足りるのが実態だ。

現在でもそのようなシステムをとっている企業なども少なくはないが、株式会社という仕組みが情報の共有を阻害していることも否めない。それを共同体化していければ、共同体の成員としてそこに参画できる。もはや情報を独占している状況ではない。疎外されていること自体が活力も能力も貶めていることなのかもしれない。マスという傍観者こそが奴隷であることに気づくときであろう。

これからの情報共有⇒課題の実現へ向けて「参加」していくことが求められる。そういった記事を紹介したい。

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昨今一番めだつのは、マスメディアの劣化のすさまじさではないか

最近、新聞テレビが機能していないどころか、ないほうがましという状態になって久しいと感じる人は多いのではないかと思います。
紹介記事は2012年のものですが、当時の思いをよくあらわしていると思います。

リンク

以下引用~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

2011年3月11日の東日本大震災と、それに続いた東電の福島第一原発事故は私たちの国の中枢的な社会システムが想像以上に劣化していることを国民の前にあきらかにした。日本のシステムが決して世界一流のものではないことを人々は知らないわけではなかったが、まさかこれほどまでに劣悪なものだとは思っていなかった。そのことに国民は驚き、それから後、長く深い抑鬱状態のうちに落ち込んでいる。

政府の危機管理体制がほとんど機能していなかったこと、原子力工学の専門家たちが「根拠なき楽観主義」に安住して、自然災害のもたらすリスクを過小評価していたことが災害の拡大をもたらした。それと同時に、私たちはメディアがそれに負託された機能を十分に果たしてこなかったし、いまも果たしていないことを知らされた。それが私たちの気鬱のあるいは最大の理由であるかも知れない。

メディアは官邸や東電やいわゆる「原子力ムラ」の過失をきびしく咎め立てているが、メディア自身の瑕疵については何も語らないでいる。だから、私たちは政治家や官僚やビジネスマンの機能不全についてはいくらでも語れるのに、メディアについて語ろうとすると言葉に詰まる。というのは、ある社会事象を語るための基礎的な語彙や、価値判断の枠組みそのものを提供するのがメディアだからである。メディアの劣化について語る語彙や価値判断基準をメディア自身は提供しない。「メディアの劣化について語る語彙や価値判断基準を提供することができない」という不能が現在のメディアの劣化の本質なのだと私は思う。

引用終わり~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

この記事が書かれてから6年以上たっていますが、メディアの質は当時よりさらに劣化しており、おそらく新聞テレビは、この先変わるとなく皆がそっぽを向いて消滅するところまで進むのではないかと思います。
その時に私たちが事実を知って判断する根拠を何処に求めることが出来るのでしょうか。

 

消費者を生産者にする?~未完を発信する「共創」の時代~

完成されたものをただ享受するのと、未完成の対象に主体性をもって向き合うのとでは得られる充足度は大きく異なる。

これからのモノづくりは(単なる工業製品にとどまらず、教育やまちづくりといった意識生産まで)消費者が形成のプロセス「途中」に関わることのできる仕組みまでを仕掛けていくことが求められる。

以下引用***
「完成品」より「未完成」であることが大事
DESIGN IT! w/LOVE<リンク

僕自身も最近つくづく感じますが、何か新しいものごとを創造する知的創造分野の仕事って、業界の違いや規模の違いが意味をなさず、あらゆる形のプレイヤーが競合するようになってきていますよね。

ほかにもそう感じている人はいないでしょうか?
大企業とベンチャーが競合するだけでなく、個人だって容易に企業組織に競合できるようになっていますし、大学のような教育機関や自治体やNPOだって競合する機会も増えてきているのを僕なんかは肌感として感じずにはいられません。

そうなる理由はカンタンに理解できます。
基本的な方法論やノウハウの取得なら短期間・低コストで可能になってきているのが1つ。
それから、創造作業の大事な部分を担うプロトタイピングや開発のコストも昔とは比べられないほど安くなったというのもあるでしょう。

とにかく新たにプレイヤーとしてゲームに参加する際のコストがきわめて低くなり、ほとんど参入障壁らしいものがなくなっているのですから、こういう状況になるのは当然です。
しかも、イノベーションを求める需要のほうも確実に高まっているわけですから。

<中略>

◆完成品を等価交換する従来モデル/未完成のものを互いに出し合う価値共創のモデル
この2つの世界観の対立の解消にあとどの程度時間がかかるのか?というのは確かに気になることではありますが、それ以上に気にした方がいいと思うのは、後者の世界観におけるシステムが徐々に社会的なシステムとしても整備されていくなか、従来のように完成品としてのアウトプットを交換することを前提とするような経済文化モデルを信じることはあらためる必要があるという点です。

完成品を交換する経済文化モデルというのは、単純化すると、持つ者と持たざる者とのあいだで固定した価値を交換しあうことを想定しているのだと思います。
商品をもつ者が持たない者に対して、商品価値と等価な代金さえ支払えば商品をその対価と交換で提供するというモデルです。

けれど、共創モデルが前提としているのは、そうした異なる2つの価値を等価交換するモデルではないはずです。

価値共創のモデルでは文字どおり、異なる両者がたがいに協力しあうことで、両者にとってともに意味のある価値を生みだすことが目指されます。
甘い蜜を出すアブラムシの体を嘗めるアリが同時に、アブラムシの体が掃除になるといった自然界での相利共生の例と同じように、異なる者同士がたがいに自分のできることをすることで結果的に両者にとっての価値が生みだされる形を理想とするのが価値共創のモデルです。

◆「完成品」より「未完成」であることが大事
そんな価値共創のモデルではそもそも交換を前提とする必要がないので、交換すべき完成品も必ずしも両者が出会う場で用意されている必要はありません。

完成品としての製品が必要ならいっしょにつくろうというのが共創のモデルです。
例えば、両者がともにおいしいものを食べることが目的なのであればかならずしも完成品としての料理が提供される必要もなく、それぞれが自分の好きなものを作れる食材や道具などが共有されればよいのです。

さらにいえば、単に完成された料理を提供されるのとは違って、ともに料理をつくるという途中のプロセスを共有できることは、両者に大切なつながりをもたらしたりもするのではないでしょうか? お金と商品の交換ではそうそう生みだされない心地良いつながりが…。

オープンな共創の場を用意しようと考える場合、この心地良いつながりが生みだされることを促進するような形で、そのプラットフォームを用意することが大事なのではないでしょうか?

昨年の11月に参加させていただいた奥入瀬&十和田でのネイチャー×アーツキャンプの主催者でも藤浩志さんがこんなことを書いています。
****
完成された場にはそれを享受しようとする人が集まるが、まだまだ未完成で「これから何かが起こりそうな場」には行動を促す主体性のある人たちが集まってくる。まちづくりの現場では、そのような状況をいかにつくるかが大切なのだと思っている。
藤浩志「まえがき」『地域を変えるソフトパワー』
****
実際、僕自身が11月に参加したキャンプはまさに”まだまだ未完成で「これから何かが起こりそうな場」には行動を促す主体性のある人たちが集まってくる”場でした。
最初はどうなるのかまったく予想がつかない状況だったのが、キャンプの終盤では参加者の一体感が生まれていました。しかも、一体感がありつつも最後のプレゼンテーションで各自が発表した内容はそれぞれの独立性を維持していて、1つの価値が生まれたというより、複数の価値が生まれたことで大きな共創的な価値も同時に発生しているといったような、従来の1つの目標に向かってみんなが分業で進めるプロジェクトのあり方とはまったく異なる価値創出の方法だと感じました。

◆オープン・プラットフォーム化に必要なもの
最初の話に戻すと、参入障壁がきわめて低くなり、従来では考えられなかったようなプレイヤーが混在する市場においては、これまでのようにそれぞれの組織のなかで完結する形で、完成形としての価値を創出するというモデルでやっていくのはどんどんむずかしくなってきているのだと思います。

だからこそ、オープン・イノベーションのように複数のプレイヤーが共創できるネットワークが生まれるようなプラットフォームをつくる方向にシフトしてきているのだと思いますが、そのオープン・プラットフォーム化を進める上で大事なのは、やはり完成品ではなく、未完成なソース(あるいはリソース)自体をフリーに共有できるようにすることなのだと思います(「完成形ではなくソースデータが提供/入手される市場環境」参照)。

そして、その共創のプラットフォームのうえで生きる個々人は、従来のように完成品だけを扱えたり評価できたりするだけではダメで、未完成なソース(リソース)を扱い、評価できる力をもつことがより求められるようになるのでしょう。

そんなことを考えながら、これからの共創のプラットフォームのあり方や個々人のもつリソースの検索性をどうするかといったことなどを今年は実践的に考えていければと思っています。

***以上、引用終わり

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