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2023年01月23日

縄文時代 約14000年間の概観~縄文前期から中期

画像はこちらからお借りしました

縄文時代 約14,000年間の概観~縄文草創期から早期まで

に続き、縄文時代の前期~中期~後期~晩期を概観します。

縄文前期はBC5000年から、晩期はBC500年頃までとなり、縄文草創期BC15,000年から数えると既に10000年=2/3が経過しています。この縄文前期~中期は最も典型的な縄文文化が華開いた時代です。複数の集団が一つの村落を形成した時代でもあり、その後の日本の歴史や文化、精神風土の基礎となっていると思われますし、集団と集団をどのように統合するか≒社会の原型がつくられた時代ともいえます。故にこの時代の考察は非常に重要な意味をもっています。

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■縄文時代 前期 BC5,000年~3,500年

縄文前期の前(BC6,000年)頃から温暖期、いわゆるヒプシサーマル期に入ります。

BC5,500年には現在と同じ気温まで上昇します。

画像はこちらからお借りしました。

縄文時代前期から、円筒土器文化が北海道南部~東北地方にかけて拡大し、本格的な土器文化が広がっていきます。円筒土器は写真のような深底型のバケツのような土器で、前期は円筒下層式土器、中期の円筒上層式と区分されています。

なお円筒下層式土器は、BC3,900年に十和田火山の噴火により降下した十和田中掫(ちゅうせり)テフラ堆積層の直上から出土していることから、円筒土器の成立には十和田火山噴火が深く関わっていると考えられています。

詳しくはこちらのHPをご参照ください。

この時代は火山付近に定住化が進み、拠点集落が各地に点在するようになります。日本列島の人口はそれまでの2万人から11万人に拡大していきます。

 

 

■縄文時代 中期 BC3,500年~2,500年

BC3000年頃には現在より2℃高い平均気温だったと推察されています。現在の青森が東京と同じぐらいの気温ですね。縄文海進が始まり、海抜が現在より5m高く関東平野は群馬県辺りまで海が入り込んでいました。

画像はこちらからお借りしました。

 

縄文時代中期の最大の特徴は、何と言っても青森県の三内丸山遺跡(約BC3900年~2200年)の登場でしょう。数百人規模(一説には最大500人という予測もある)の居住者が大集落を形成。三内丸山周辺にも同規模の集落が形成されており、その集落同士の繋がりなどもあったと想像できます。

 

集落は住居、お墓、貯蔵庫など計画的に配置されており、盛土や道路など土木工事も見られます。長さ約32m、幅約10mもの大規模建物もあり、祭祀が集落の中心にあるのが特徴です。

何故この祭祀場がつくられたのでしょうか?

この祭祀場でどのような活動をしていたのでしょうか?

今後詳しくみていきたいと思います。

画像はこちらからお借りしました。

生産様式は、漁労・採集生産のみならず、集落周辺に堅果類樹木を多数植栽するなどクリやマメの栽培も認められています。栽培は生産力の拡大が目的と考えがちですが、その視点だけではないでしょう。

縄文時代は他集団との友好のため贈与が盛んにおこなわれており、黒曜石やヒスイもその一つです。縄文時代中期に栽培が盛んにおこなわれたのは、上図のような黒曜石やヒスイの広域化と同様に、贈与が盛んになったことの一つと考えられます。逆にいえばそれだけ集落間の緊張圧力が高まっていたことの裏返しだったのでしょう。

なお、この期間に人口は11万人⇒26万人(縄文時代最大数)まで拡大します。集団間が近接し、緊張圧力も高まっていったと推察できますが、縄文時代を通じて戦争跡はなく贈与や祭祀等により友好的な関係性を形成していたと思われます。

 

 

また、縄文中期の大きな特徴の一つは、有名な火焔土器でしょう。詳しくは、

【縄文人の特性】縄文中期に見る縄文人の著しい観念進化とその背景①

をご覧ください。

それまで表情がシンプルだった土器がエネルギッシュな模様のある土器に変化し、出土される土器の量も縄文中期は圧倒的に多い。

何故、この時代このような変化が生じたのでしょうか?

しかも、意図的に大雑把に割った痕跡があります。何故でしょうか?

この辺りも今後記事にしていきたいと思います。

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