2007年11月15日
葬式は誰の為のものなんだろうか
一見当たり前のようにも思えるこの問いかけですが、皆さんは誰の為に行うとお考えでしょうか。 またはそのことを意識したことはあるでしょうか。
これを、「弔い」と「悔やみ」という言葉から考えてみたいと思います。
この二つの言葉は非常によく似ており、辞書を引いてもあまり区別がつきにくい感じがします。
まずはいつものように応援よろしくお願いします。
【弔い】
人の死を悲しみ、遺族を慰めること。くやみ。(「大辞泉」より)
【悔やむ】
人の死を惜しみ悲しむ。(「大辞泉」より)
これに関し、なるほどと思うことを述べているサイトがありました。
「弔い」は死者のために遺された者のなす行為であり、「悔やみ」は遺族に対してなす行為ないしは言葉であるように思う。これはどれだけ客観性をもつか、はなはだ自信がないが、私にはニュアンスの違いがある。
葬式とは元来この2つの意味があったのではないか。つまり死者に対して悲しみ惜しむことと、遺族となった家族の心情をを慮る、という2つの面である。
葬式の焼香の動作を見ていると、死者に向かっての焼香と遺族に対する挨拶が対になっている。あれは死者への焼香が、私の言う「弔い」であり、終えた後に遺族に向かって礼をするのは、遺族への「悔やみ」であろう。
(現代葬儀考「弔いと悔やみ」より(リンク)
第三者からみれば「葬式」の意味は、このように亡くなった故人と、残された家族の両方への労い(?)の気持ちを表すものであったのだと思います。また同時に遺族は、故人への尊敬の念と、生前個人を見守ってくれた人たちへの感謝の気持ちを表して、生から死へ移り変わった故人との決別の意思を表していたのではないでしょうか。
その意味で、遺族も第三者もお互いの感謝の気持ちを表す場ではありますが、中心は故人に対する”弔い”ではないかと思います。
弔いと悔やみは並立するのが一般だが、中には困る例もある。故人と親しかったが、故人が生前家族と不仲であった場合である。遺族には悔やみを言いたくないという場合である。大人げないと言われるだろうが、こうしたケースはけっこうある。その場合、葬式自体への参列をやめようか、とも思うが、私は参列することを選択する。遺族に対する悔やみよりも死者自身への弔いを優先させるからである。葬式は、何よりも死者のためにあると考えるからである。
最近の家族葬ブームの中で危惧することは、遺族の「面倒は嫌」という都合だけで「簡単」な家族葬を選択し、死者の交遊関係を断ち切るケースがまま見られることである。葬式は何よりも死者を弔うためにあるので、遺族の都合で行われるべきではないだろう。しかし、同時に遺族のグリーフも思いやる葬式が理想ではある。
(同サイトより)
(「縄文時代における墓の変遷と祭り・親族・地域 ―環状列石を中心として― 」よりお借りしました)
故人の為の葬式であったものがいつしか遺族の都合でその形式が選ばれ、その運営も様式の伝承もすべて業者に任されるようになったのは、なにも共同体の喪失だけが原因ではなく、誰の為に行うのだろうか?という意識の希薄さにも起因しているのではないでしょうか。
- posted by saah at : 2007年11月15日 | コメント (5件)| トラックバック (0)
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