RANKING
にほんブログ村 歴史ブログへ
NEW ENTRIES
RECENT COMMENTS
RECENT TRACKBACK

2008年03月22日

【番】と【衆】

%E3%81%84%E3%82%8D%E3%82%8A.bmp%E7%AB%88.bmp
日本の村落を調べていると、大きく東日本西日本で生活様式に伴って共同体のあり方そのものが異なることが分かりました。生活習慣や文化についても西と東で異なるものが数多くありますが、民俗学では、以下のように言われていたりします。 8)
東北日本は、双系的な同族制村落
西南日本は、父系的な年齢階梯制村落
とのことです。一体どういう意味なのか? (東北日本と西南日本の境界線は続きでどうぞ) 😀
気になった方は、続きに行く前にいつものポチっとお願いします。 😀

にほんブログ村 歴史ブログへ


民俗学者の福田アジオという人が東西の文化について調べたものがあり、『番と衆』というもので明らかにしています。その図書に対する書評から抜粋引用します。
松岡正剛の千夜千冊『番と衆』福田アジオより

この本は東と西の日本の集落や村落や町村に継承されてきた社会組織形態の特徴を問うもので、徹底してフィールドワークにもとづく報告でありながら、そこから浮上してくる日本社会の静かな叫び声が聞こえてくるようで、ずっと気になっていた。結論は日本の東には「番組織」が多く、西には「衆組織」が多いというものだが、そのように関東が家を単位として「番」を守り、関西が地域を単位にして「衆」をつくってきたことに、なんだかものすごく愛着をおぼえるのである。
すでに、日本がこんなに小さな国土でありながら、一種類の国でもなく、一つの社会組織が蔓延してつくられた国でないことは、以前から訴えられてきた。
ランダムにいうのなら、坪井洋文が関東・中部地方に「餅なし正月」を発見したのが話題になって、岡正雄・福武直・山田盛太郎・有賀喜左衛門・戸谷敏之・磯田進・蒲生正男・住谷一彦らの研究がすすみ、主として村落構造の類型を「東北日本の双系的な同族制村落」「西南日本の父系的な年齢階梯制村落」
に分けることが定着し、そこへ宮本常一や網野善彦の東西日本区別論が激しくかつ賑やかに加わり、たとえば「東の長子相続、西の末子相続」、「東の馬市、西の牛市」、「東のイロリ、西のカマド」、「東の背負い子、西の天秤棒」、「東の湯、西の風呂」といった区別がどこまで成り立つのかおおいに議論になったものだった。
それだけでなく、サケ・タラは東でタイは西、東はソバで西はウドン、東はコシヒカリ・ササニシキの軟質米だが、西は硬質米、それと関係があるのか、東は朝炊きで朝食に炊立てのご飯に味噌汁納豆と海苔、西は昼炊きでそれをお櫃に入れて夕食に役立てるという「食べる文化」の相違も、ことごとく研究の対象になってきて、カレーがこんなに全国制覇しない時期は「豚カレーの東京、牛カレーの大阪」という特徴さえ指摘されたものだった。
東西の文化的習俗的境界が遠江と三河あたりに、言葉の分布の境界線が岐阜・愛知あたりの川沿いにあることも、何度も指摘されている。
しかし、こうした文化・風俗・習慣の差異が生活に影響を及ぼしている背景には、必ずや社会組織の形態や特徴になんらかのちがいが動いていたはずなのである。それが総じては、「東の党、西の一揆」にあらわれ、そこに「東の番、西の衆」というしくみが動いていたらしいのであった。
番と衆が組まれたのは、そもそも集落の形態や景観に無縁ではない。関東・坂東では家屋はそれぞれが自立的傾向をもっていて、どちらかというと塀や垣根をめぐらし、外から見えにくくする。したがってそこでは「家」が単位になって「番」を受け持ち、それが回り番になる。月番、夜番、年番がこうして組まれていった。
ぼくはこれを東の日本における「当番の文化」と言ったらよいかとおもっている。
各自の祈りの形態も、屋敷神(氏神)が家の敷地の中にあるというふうになる。明治中期までは関東では墓地も家に対応して設けられていた。
一方、近畿・上方の村落はたいていは「集村」で、家にはあまり塀がなく、垣根も低い。外から見えてもそれほど気にしない代わりに、簾や暖簾や格子が発達する。家が柔らかくつながっているだけに、共同体としての仕事は、集村が決めた層としての「衆」の構成になっていく。女衆、女子(やなご)衆、旦那衆、重立衆、六斎衆といった役割がこうして生まれていった。さしずめ西の日本における「席衆の文化」というべきであろう。
祈りの形態も屋敷神はなく、小祠が村に必ず祀られる。墓地や埋葬地のサンマイ(三昧)はたいてい集村の外れか田畑の中にあり、両墓制である。
こうした「東の当番文化」「西の席衆文化」というものは、それが東西社会の特徴をあらわしていることよりも、そのようにして地域のなんらかのコモンズとしての特性が社会性やネットワーク性としてあらわれていったことに、むしろ考えるべき何かがあるようにおもわれる。(後略)

同じ日本でありながら、生活の基盤となる生産様式によって、集団の構成や家などの形態までもが大きくことなる点が気づきです。西の方は、農業等の共同作業が中心となり、必然と、他の家との共同や衆などの組織化が必要となっています。一方、東は、雪等により必然と農業に制限を受け、また、狩猟等により独立した生業を行っているという感じでしょうか?なので、どちらかと言えば西よりも共同体への関わりが少し薄くなっているとも言えます。
どう生きていくのかをみんなで考え、規範・役割を作り上げていた姿は、どの世代にとっても必要であったと思いました。そんな役割の喪失が、現代の都市の姿なんだと思います。
『番と衆』福田アジオ著、読んでみたくなりました。 😀
by 河内のおやじ

> List 

trackbacks

trackbackURL:

comments

ヒトの歯って宝石並みに硬かったんですね~28の宝石を私は持っていたのね☆驚きです。食と体の特徴は連関しているって事が分かりました。。人類500万年の進化の歴史が詰まっているんですね。

  • shijimi
  • 2008年7月9日 22:01

>shijimiさん
shijimiさんは28の宝石をお持ちなんですね。
私は親不知を2本抜いたので、え~と・・・そんな話しはいいですね。
shijimiさんのおっしゃるとおり、我々の今の体は500万年に渡る可能性収束の結果なんだと思います。L(・o・)」

  • yidaki
  • 2008年7月9日 23:34

cheap shoes online 共同体社会と人類婚姻史 | 初期人類は骨を食べていた!vol.2

共同体社会と人類婚姻史 | 初期人類は骨を食べていた!vol.2

comment form
comment form