2021年07月22日
共同体社会の仕組みはどうなる? -7
今回は、生活、生産活動にとって切り離せない法規制や契約といった当事者にとっての約束事はどうあるべきかを探りたい。
国家が成立してから法という規範が明確にされてきた。行動の規範や制約、それを守らない場合の罰則と時代が下るにつれて複雑多岐にわたり、現代は法治国家といわれるように、膨大な法制度でがんじがらめになっている。
なぜこんなに複雑多岐で膨大になってしまうのか?それは、国家の成立時点から共同体が解体され大多数の奴隷を支配者が統治するという体制であるから、基本的に財を税として収奪し奴隷を管理する必要から法を作り、守らせる。つまり国民=奴隷を信用していないからである。契約行為というものも、その延長にある。
一方、それ以前の共同体部族では、生活イベントに関する不文律の規範はあるものの、成員全員を信頼していることやもともと自然の摂理に照らした行動原理であるから、それに逆らうこと自体が恐ろしいことなのである。自然の摂理の中に人間の行動原理が包摂されていたのである。
共同体社会へ向けて、現在の法体系として支配原理とその構造から派生した自由、平等、権利、個人という法概念が自然の摂理とは相いれないことを指摘しておきたい。この根本を変える規範としての体系が必要である。つまり、人間の社会活動についても、自然の摂理や生命原理に照らして整合しているのか、持続可能なのかが問われてくる。
今回も参考となる記事を紹介したい。
何よりも柔軟な思考と大胆な仮説の提起が求められる現在、その最も反動的な妨害者として立ちはだかるのが、他ならぬ個人主義者たちです。
かつて、自由・個人・権利etcの観念を中核とする近代思想は、輝きを放っていました。しかし、その近代思想も、’60年代を通じて急速に色褪せてゆき、貧困がほぼ消滅した’70年をもって生命力を絶たれ、輝きを失って終います。’70年以後(正確には’60年代から始まっていますが)、一気に思想的無関心が蔓延していったことは、周知の事実でしょう。
ところが、大学(人文系)やマスコミは、既に生命力を失い、形骸化したそれらの観念に未だにしがみついています。実際、彼らは百年も前から同じ言葉を繰り返しているだけで、本質的には何の進歩もみられません。これでは、当面する社会の閉塞や危機に対応できる訳がありません。今や多くの人々が、学者(人文系)やマスコミの論調にはウンザリしているのも、当然のことでしょう。
しかし、なぜ学者やマスコミや官僚は、生命力を失い形骸となったそれらの観念にしがみついているのでしょうか?それは彼らが、それらの観念を売り物にして現代の神官としての特権的な身分を手に入れた特権階級だからに他なりません。あるいは、本来万人が担うべき社会の統合という課題に自分たちだけが高給をもらいながら関われる身分という意味で、特権的統合階級と呼んでも良いでしょう。(ちなみに、万人が社会統合という課題を担い得る可能性を秘めているのが、他ならぬこのインターネットなのです。)
日本人の法意識と稲作
リンク より
実は,日本の憲法,民法,刑法などの主要な法律はえてして,外国の法律を参照して,それを日本の国内法として使っていることが多いのです。外国法の継受と申します。ですので,日本の法学部で学び始めた方はおそらく皆感じることではないかと思うのですが,日本の法律の講義を聞いても,なんとなく,サイズの違う服を着ているような感覚を覚えるのです。確かに六法には,紙に活字で法律が書かれているわけです。でも,その解釈,として教わる外国の学者の方々の学説などを聞いても,なんとなく何かが違うような感覚がしたことを覚えています。
川島先生が探求されようとした存在も,きっとそのことと共通するように思います。外国の法律を日本語に訳したものを紙の上で追っているだけでは,よい法律の動かし方は決して分からない。その法律の動きを促す存在を研究するべきだ,と川島先生は思われたのだと思います。
その研究結果である『日本人の法意識』には,とても興味深い話が並んでいるのです。例えば,所有権についてのお話ですと,「外国人が自分の物を人に貸した場合には当然のように「返してくれ」と言うのに対して,日本人はえてして遠慮気味に「返してもらえないか」と尋ねる傾向がある。」,民事訴訟のお話ですと「日本では,訴訟を起こす人はえてして『変わり者』とみなされる。」などのように。
川島先生は研究の結果をまとめて,「日本人にとって権利・義務とは,あるような,ないような存在である」と書かれています。活字として紙に権利義務が書かれているのに,それは「あるような,ないようなもの」と言われるそのお話は大変興味深く,大学生だった私は,知的興奮を覚えたことを記憶しています。その後弁護士になり,教科書だけでなく,実際に生きた事件を担当するようになった今でも,時々その川島先生のお話を思い返すことがあります。そして思うのです。「川島先生が言われた『日本人の法意識』はどこから来たのだろうか。」と。
そんな中,とても興味深い記事を目にすることがありました。稲作が社会意識に影響を与えているのではないか,という記事です。アメリカのバージニア大学で文化心理学を研究されているトマス・タルヘルム氏率いる研究チームが,中国で,稲作が中心の地域と麦作が中心の地域とで,人々の意識がどう違うのかを研究したというのです。日本の法律がモデルとしている欧米では,人々は一般的にアジア圏の人々より個人主義であるといわれています。
その違いはどこから来たのかを調べようとしたトマス教授は,欧米の主食と言えばパンなどの小麦から作られたものであり,アジアでは米を主食にしている地域が多いことに着目したのです。トマス教授は,稲作も麦作も行っている中国を対象に調査を行いました。その結果,気候,言語・文化などに関わりなく,歴史的に長く稲作を行ってきた地域出身の人々は,和を重んじる全体主義的な傾向があり,麦作を行ってきた地域出身の人々は自立した個人主義的な傾向があることが分かったとの報告をまとめたのです。
稲作を行うには全体的な労力が麦作よりも大きく,周囲の協力が必要不可欠です。稲作農家は連携して入り組んだ用水路を整備したり,作業を互いに手伝ったりしなければなりません。長い年月の中で,そのような共同体意識が,チームワークの必要性が相互依存的,集団主義的性質を生んだのであろうと,トマス教授は報告しています。それに対し麦作(小麦)は,他の農家と連携しなくとも栽培できますね。それ故に自立的、個人主義的な性質を生んだと解釈できる,ともトマス教授は報告されているのです。
研究チームは、中国6か所の異なる地域出身の学生1162人を対象にいくつかのテストを行ったそうです。あるテストでは学生に,自分とつながりがある人々を円で描いてもらったところ,稲作地域出身の学生は自分自身を友人よりもやや小さな円で表したのに対し,小麦生産地域出身の学生は,自分自身を他者よりも大きな円で表したといいます。さらに稲作地域出身の学生は,友人に対して助けてあげたいという気持ちが強く,一方で罰する傾向は弱かったといいます。これは,社会面及び仕事面での相互関係において,集団内の絆がどれほど優先されているかを示すものだとされているのです。
トマス教授は,そのように作っている穀物の違いが人々の性格や価値観,社会性に反映されると指摘し,この理論を「稲作理論」と名付けたのです。トマス教授の研究結果は,法意識の面でも言えるように思えます。
川島教授が『日本人の法意識』で書かれたように,日本人の法意識が欧米のそれと比較して,「個人による権利主張」ではなく「集団の和」を重視しようとすると言われる理由も,稲作にあるのではないかと思うのです。稲作のためには地域が集団で水を管理する必要があります。稲作地域で水が絶えてしまえば,地域全体が滅びるのです。そのような環境は,個人を尊重することよりも,集団を重視する社会意識を生んだことになります。
逆に,気候により稲作に適さず,小麦の栽培や狩猟が行われてきたヨーロッパでは,権利主張を行わなければ生活ができないのである。それが欧米流の権利主張を中心とした法文化を生んだと思われるのです。
トマス教授の報告を拝見して,なんとなく学生時代からの疑問が凍解したような気がしました。法の動きを促す存在。それは,日本の社会で懸命に生きてきた人々の意識が積み重なったものなのだと思います。
紙に書かれた法律があって,それが社会を動かすのではない。懸命に生きる人々とその思いがあって,初めて法律は動き出すのです。
- posted by KIDA-G at : 2021年07月22日 | コメント (0件)| トラックバック (0)
trackbacks
trackbackURL:
comment form