RANKING
にほんブログ村 歴史ブログへ
NEW ENTRIES
RECENT COMMENTS
RECENT TRACKBACK

2007年01月02日

神を謡うは、同化→読み解き→真似ること

守護神信仰(自然神→人格神)の事例として、アイヌの神謡(ユーカラ)を紹介します。知里真志保氏によるユーカラの分類は次の4つ。歴史的にも①→②→③へと変化していきます。
ユーカラ―┬―神々のユーカラ―┬―①自然神謡 …自然神
│            └―②人文神謡 …自然神と人格神の中間
└―人間のユーカラ―┬―③英雄詞曲 …人格神
└―④婦女詞曲

にほんブログ村 歴史ブログへ

①自然神謡

動物神、植物神、自然神が主人公となって自叙するもの。yukar は多分 yuk kar に基づいていて、それは「獲物を・為す」→「獲物の・真似をする」が原義と考えられる。 熊、狐、貝、鯨等ありとあらゆるものが神と呼ばれる。
②人文神謡
オイナカムイ、アイヌラックル、サマイクル、オキクルミなどの名前で登場する人文神の物語。
金田一京助は、この中を更に3種類に分類する。
(1)カムイ・オイナ:雄大、最大の説話。オイナカムイの出自、若い女神を魔神の洞窟から救いだし、人間文化の基を開くと共に、その女神と結婚するという筋書き。
(2)ポロ・オイナ:日神が悪魔に囚われて世界が闇になるのを回復する勇壮な物語。
(3)ポン・オイナ:違う神を詐称してコタンコルカムイの妹を妻訪いして、その許婚の男神(ポロ・シリ・神)と争う物語。
(注)天照大神、日食、大山祇神などの要素と多少の共通点もありそう。
③英雄詞曲
主人公は人間の英雄、ポイヤウンペ、正式にはポイ・シヌタプカ・ウン・クル、地方によってヤイラプ、ヤイエラプという名前の少年英雄の物語。幼くして父母を失い一族のものに育てられる。長じて異民族と壮絶な戦闘を繰り返す。敵中に美少女を得て、相たずさえて悪戦苦闘の末に故郷のむらに凱旋する。一編短くても数千句、長いものは数万句に及ぶ。
(注)日本の少年英雄ならヤマトタケルだろう。
④婦女詞曲
女性が主人公の物語。男女間の情事を謡っていて、やや小説的な内容に踏み出したもの。

「ユーカリ」を謡うということについて、『知里真志保の日本語訳におけるオノマトペに関する試論』から補足すると…。

カムイユカッのユカッには、謡うという意味の他に「ものまねをする」という意味がある。物語を語るうちに自分が謡うのか、神が謡うのか、神たる動物が謡うのか、神である動物を真似ている自分が謡うのか、心理的な境界が曖昧になり、主体の転置が起こっていたのではないだろうか。
一方ユカルには「真似る」という意味があり、その語源は恐ら、くyuka-karで「獲物をなす」「獲物のさまをなす」「動物の真似をなす」ということだったらしい。
古くアイヌの社会には祭儀の際に演じられる習いだった呪術的仮装舞踏劇があり、シャーマンが獲物たる動物――それがアイヌにおいては神である――に扮して、その鳴き声を発しながらその行動を所作に表して舞うことが行われた。その所作、およびそのように所作することがユカル、すなわち「獲物の真似をなす」だった。

始原人類は、自分たちを遥かに超えた超越存在たる自然を畏れ敬い、現実対象=自然に対して自分たちの生存(=危機からの脱出)への期待を込め、自然が応望してくれる事を切実に願った。その果てに万物の背後に精霊を見た。(実現論より)
アイヌの自然神謡は、徹頭徹尾相手(対象)に同化し、相手の語っていることを読み解き、そのまま真似をする(ことで皆と共認する)点では、精霊信仰の延長上に位置している。
しかし、特殊なシャーマンしか同化(憑依)できなくなっていくことや、ある特定の動物などに絞り込まれていくというように、精霊信仰が退化する過程をも示している。
そして、英雄詞曲まで至ると、同類闘争圧力を背景に、自部族の正当化観念へと変質している。
今後とも、このような事実追求によって本来の観念や規範を再生していきたい。
読んでもらってありがとう(^_^) by岡

> List 

trackbacks

trackbackURL:

comments

いくつか疑問があります。よろしくお願いします。
>このころの中国は主として、父系の婚姻様式をとっていたでしょうから…
弥生前半の渡来人は主に江南人で、婚姻性は母系の妻問婚です(恐らくナシ族やモソ人と同系列)。その後朝鮮半島から天皇家につながる武装集団がやってきますが、彼ら支配階級は父系制を守ると同時に妻問婚にも順応します(平安貴族が有名ですね)。
>危険な海に乗り出して生き延びるしかなかったのは「男」だと考えるのが自然と思います。
戦乱になれば真っ先に逃げる(避難させる)のは女・子供です。ボートピープルの中に女も含まれていたと考えても不自然ではないと思いますが…。
>縄文時代の日本の婚姻様式は母系制。他集団から「男」が入ってくる婚姻様式です。
交叉婚も妻問婚も人は移籍しません。生まれた子供は母親の氏族に属することを母系制といって、交叉婚や妻問婚の場合、婚姻の相手(男)は別氏族に属します。
渡来人は武力だけでなく、妻問婚によって親戚関係になるという方法も駆使して、縄文集落を支配下に置いていったと考えられます。
儒教も当時は諸子百家の一つに過ぎず、日本に入ってくるのはせいぜい5~6世紀。勿論おっしゃるように定着には程遠い。
西洋人の略奪・皆殺しではなく、東洋人は服属支配、その典型が渡来人の日本支配だったのは間違いないと思います。
そして父系制が庶民(農民)に定着し出すのは、開墾土地を私有財産にできる道が開かれた江戸中期以降だと思われます。

  • ☆疑問☆
  • 2007年1月11日 03:06

DNAを見ると、江南の血なんて殆どない事が分かる訳だが・・・

  • 2007年1月28日 18:37

共同体社会と人類婚姻史 | 縄文と弥生~その影響について~

comment form
comment form