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2019年8月1日

2019年08月01日

明治維新政府による試験制度=エリート教育が日本の国家を衰退させた原点

★日本の官僚制度は明治以降にどのように導入されたのか?  で官僚制度までの成り立ちを見てきましたが、もう少し詳しく見ていきます。
最初は、各藩の優等生が推薦により高等教育機関の難関校に入学しましたが、明治維新政府は科挙試験のようなペーパー試験を採用しいきます。
この試験制度を導入したエリート教育が日本の国家を衰退させる原点となりました。
リンク より

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最初は各藩にあった藩校の優等生が推薦されて日本の高等教育機関の難関校に入学しましたが、この入学は文字通りの推薦入学で、藩校の教師や周囲から秀才と認められたものが選ばれました。従って最初はペーパー入学試験はありませんでした。旧制中学の第一回卒業生が出始まったころから、入学試験が始まりましたが、小学から中学を終えるまで、難関校は入学者がいなかったわけではありません。すでに学齢に達していた子供や青年は推薦でそれぞれの学校に入学しましたから、入学試験が始まるまで5,6年の年月が必要でした。
この期間、中国の科挙のような試験はなかったのです。週刊新潮にコラムを連載している帝京大の高山教授によると、遣唐使の時代から日本の政府は中国の政治制度や文化を取り入れましたが、採用しなかったものに科挙試験、宦官そして纏足の3つを挙げています。内閣や大臣、昔の関白、相国などの官名も中国の文献に由来します。しかし科挙はそれ以後の歴代政権でも採用しなかったので、科挙官僚による亡国の歴史を見ずに済んだと述べています。ところが明治維新政府は高等教育学校に科挙試験のようなペーパー試験を採用してしまいました。
さて、明治維新に生きた日本の英傑を、現在の偏差値入試に当てはめて、どの程度のものかを推定するのも意義があると思います。(中略)結論からいうと、明治維新を起こした日本人で東大に合格したものは恐らく一人もいなかったと推定されます。なぜなら彼らは我利我利ではなく、この国家の近代化に興味があり、立身出世のために一日中机に向かうことなど考えられなかった人間達だったからです。

日本の政治腐敗や国家としての後進性は実はこの日本のエリート教育にあったと私は考えています。つまり日本の政治の腐敗の原点は創立順に陸軍士官学校、海軍兵学校そして東大なのです。いずれも当時、超難関という教育機関の名門中の名門でした。
明治維新から日露戦争までに至る日本の近代化は、藩閥政治という腐敗を抱えながらも近代教育を受けない世代に担われてきました。
日本の高等教育は藩閥政治や士農工商という旧弊を克服するために意味があったかもしれませんが、継ぐべき財産を持たないけれども学業に覚えのある旧士族や有力農家の次男、三男が立身出世を目指してこの難関に挑戦したのです。
そしてこの教育機関は入学試験や学業成績を重視し、点数の高低により人間の頭の良し悪しの順位を決めることに使われました。 日本の知性はこの時から入学試験の点数で決定づけられるようになり、それが人物評価の絶対的尺度となったのです。 日本の国家が腐敗する原点はここにありました。
頭の良い人間が決めたことに一般の国民は文句が言えなくなりました。 そしてこれらの高等教育機関とその生徒達は、国家を、そして国民を睥睨し、自らの立身出生にのみ強い関心を抱くようになったのです。
山本権兵衛首相は成人後に教育を受けた受験世代ではない首相でしたが、極めて優れた政治家でした。 しかし山本内閣は、中堅幹部になりつつあった陸士、海兵出身の軍事官僚の汚職によって崩壊したのです。 日露戦争以後、軍事官僚に東大出身の官僚が加わりますが、日中戦争の遠因となる近代外交史上でも恥ずべき、「21か条の要求」は東大首席の加藤高明外務大臣(後に東大出身の最初の首相)が世界第一次大戦のドサクサに紛れて中国に突きつけたものでした。
彼は三菱財閥の娘婿でもあり、国家と財閥企業との癒着と、それを取り持つ高級官僚の腐敗を象徴する人物だと思います。このように、日本の構造的な汚職政治は近代日本の高等教育機関が育んだ天下の秀才達により始められたのです。

 

日露戦争後は世界の5大国として、陸奥宗光や小村寿太郎が江戸時代に締結された西欧諸国との不平等条約の解消に努力した成果と相俟って、日本の内政・外交は近代教育を受けた文官官僚により取り仕切られていました。軍事は勿論、天下の難関、陸士、海兵組が進出していました。しかし、20世紀に入り、世界が大きく変化する時代にあって、日本の国家運営は独善的な政策の連発により、国際的に孤立してゆく道でもありました。
その一つはロシア革命後に列強がロシアに干渉した時にも、地理的理由から日本のシベリア出兵は日米共同歩調という原敬内閣の計画に反し、すでに形成されていた陸軍参謀本部は勝手に、そして世界の情勢分析も何の将来展望もなく、アメリカの撤兵後も居座り続け、国際的な非難を一身に浴びることになったのです。義和団事件までは整然としていた日本の軍隊も、無学な山県有朋より酷い、陸士出身の司令官に指揮されるようになり、政治も東大卒官僚によって運営される時代に入っていました。

 

加藤内閣の後継でもある浜口雄幸内閣で大蔵大臣を務めた井上準之助も東大卒ですが、この内閣が強引に推し進めた金本位制の解禁では内外で論争がありました。井上も加藤に劣らず傲岸不遜な人間で、石橋湛山などの平価切下げ金解禁論を一蹴しました。早稲田や一橋出身者の意見には耳を貸さない傲慢さで、満州事変へつながる国家経済破綻のデフレを引き起こす大失策を犯した人物でした。浜口自身は日本経済の政商・財閥もたれあい体質を改善する意味があると信じ、「玉砕するとも男子の本懐」という名台詞で有名ですが、この政策は金貸し財閥の三井銀行などが円買いドル売りで大儲けしただけで、アメリカの大恐慌の煽りを喰らって日本の外貨準備は底をつき、昭和の大恐慌を招いたのです。
東大卒の官僚が政治の世界に進出してその実像を現した所見は、雑多な出身者が多い政界や官界或いは実業界の中で、傲岸不遜や慇懃無礼が飛びぬけて顕著であったことです。若槻礼次郎は線が細いと言われた人物でも慇懃無礼な人物でした。「ああ玉杯に花うけて」の天下の秀才達は、欧米に向かっては劣等感を、内にあっては「人民ばかりでなく、元勲や貴族までをも見下す」集団でもありました。

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