2007年05月23日
日本婚姻史5 妻問婚~大和時代~
日本婚姻史4 群婚の崩壊 の続きで、妻問婚のはじまりです。
ツマドヒ婚の起こり
妻問婚は、氏族共同体に照応して、群婚と併存しながら成長してきた個別婚的婚姻制。いわゆる対偶婚で、身柄や生活の根拠が各自の氏族にあり、夫は妻方に通ったり(別居-妻問い)、滞在したり(妻方同居-婿取り)するが、その結合は弱く、離合が容易である。氏族が生活組織の単位であり、夫婦関係はいわば恋愛関係である。
ここでの夫婦関係は、「家ゆすりて取りたる婿のこずなりぬる」(枕草子)というように、容易に「床去り」「夜離れ(よがれ)」ができ、女の側でも男を「門から帰す」と、それで簡単に離婚が成立した。
初期の妻問婚の祖型は、群婚の崩壊でみた神前婚約によって男が女の家に通う個別式の形態にあったといってよい。しかし、この形態には群婚原理が付着している点(神が婚主である点、一対一の婚姻に群婚的な連帯性から副夫や副妻がからんでいる点)で、まだ前段階のものであった。むしろこれから誘発され、非公式の形をとって、男が忍んで女を妻問いする自由恋愛の俗を派生したところに、妻問婚の表面化が見られた。
従来の段階までは、通婚圏はヒロバや入会山の神のしらす領域内に限られていたが、いまや人間が神を裏切って自由恋愛の開拓者となったとき、その通婚圏は無限であった。ただ厳密な意味では自由ではなく、婚主が神から族長に推移するにつれ、晴れやかなクナドの公開群婚が、閉鎖的なクミド(「古事記伝」によればコモリドコロの意)の室内個別婚になり、それと同時に、性交を夜間の秘事とする方向に向かって歩みださせた。
妻問婚の場と父系胎生
縄文時代のヒロバをもった環状式から、弥生時代になると住居跡が塊状式になり、古墳期前後になると大小の規模をもった竪穴群が特徴的になる。古墳期の大小規模の竪穴群は、大屋妻屋式集落とよび、ヤカラ共同体とみて、典型的な妻問婚の場に比定する。
大屋は母屋とも中つ屋ともいい、トジ・トネおよび長老たち(これらをオヤといった)の詰所であり、同時に共同祭祀や会食等の場所でもあったろう。トジ・トネは夫婦ではなく、沖縄祭治村でのネーガン(根神)とネンチュー(根人)のように、姉と弟であるのを原則とした複式族長であった。
この大屋をとりまいて、ヘヤ、クルワ、マキなどとよばれる妻屋群があったわけで、倉庫、産屋、カマ屋、若者小屋等もあったろうが、やはり代表は妻や母たちの婚姻用や育児用の小屋であったろう。(妻=ツマは大家をめぐる端の小屋という意。)
この期の基本的矛盾は、各共同体間の経済力の不均衡にあったが、有力共同体と弱小共同体との間に、征服被征服の意味をもった擬制同族化同盟がもたれ、それがひいて「氏姓時代」というヤマト大部族連合時代をもたらした。この段階の征服被征服は共同体の破壊とはならず、それを温存した擬制同族化の形で成された。
有力共同体が弱小共同体を征服して、それを擬制同族化する方式には武力も伴うが、それと同時に征平をコトムケ(言向け)、服属をマツロフ(祭る)というように、被征服者の共同体を破壊せずに存続したまま、自己側の祭祀圏にくみいれる方式や、通婚圏(原始社会では通婚圏は同族圏であった)を、大胆に拡大する方式、つまり「記・紀」「風土記」等の大国主、景行、ヤマトタケル、応神等の妻問い緒説話などに反映しているように、大族の族長らの、遠近の同族異族に対する妻問婚によって、盛んに父系観念を育成し、各妻方の妻屋に生まれた子を中心に、その一族を擬制同族化し、あるいは同盟氏族に、あるいは部民とする政策がとられた。
大化以前には、帰化人たると部民たるを問わない自由婚の習慣があったが、このことも前記の征服政策を助長した。こうして征服者も被征服者も、革命的な展開をとらないで、原始共同体(母系氏族制)の原型を、歪めはしたがもち続けて大化におよんだ。
共同体の大屋妻屋方式では、はじめは妻屋は共同体側で建てられ、オヤの管理下にあったが、赤人の歌に「伏屋建て妻問いしけむ」とあるように、庶民の間でも夫の手で妻側の屋敷に妻屋が建てられ、そこに妻と子をこめて独占する形が生まれてくる。
一人の女性が必ずしも一夫ではなく、多夫をも通わせる俗と並んで、このような一夫による独占的形態が芽生えたとことは、大氏の族長相続が父系に変わったこと、つまりこれら妻方部落の妻屋で生まれて育った子の中から、その父である大氏の族長が、自分の相続者を指定するようになったことに照応する。ここに妻屋での父系胎生と、父系母所制段階での族長相続の方式が観察される。
読んでもらってありがとう(^_^) by岡
次回は、妻問婚の番外編です。お楽しみに
- posted by okatti at : 2007年05月23日 | コメント (5件)| トラックバック (0)
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comments
写真のラピタ土器って、ほんとにきれいですね。材料の粘土選びから模様をつける道具・技術まで、色んな人の期待やそれに応える人の充足が結晶してできたものって感じです!
ですよね\(^ ^)/。
現代の市場主義による斬新さや話題性を持たそうとする商品群と違い、その当時の人々の意識の結晶が、この図柄を生んだのだと思います。
建築の書物でも「建築家なしの建築」という本があるのですが、それぞれの環境に適したすばらしい姿(個性)を、はなっています。
個性という言葉は適さないと思いますが、人一人の個性とは比べ物にならない、集団によって環境に適応した意識の集大成(集団の個性)の力強さを感じます。
ラピタ人って縄文人?
テレビ東京・編の「海を越えた縄文人」という書籍に、縄文人とラピタ人を繋げる仮説が書かれていました。
>1996年8月、ソロモン諸島から東南に約100…
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