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2007年06月09日

オセアニアへの人類の拡散

ニューギニアの特定の部族だけではなかなか外圧状況が見えてこないと思いますので、ここは目先を変えて、オセアニア全域の状況から迫ってみます。
まず、オセアニア地域へ、いつ、どうして、どこから、どうやって、どんな人々が移住してきたのか?オセアニアへの人類の拡散の歴史を調べてみました。
オセアニアへの人類の拡散には2段階があったようです。
  ○第一段階は、今から約5万~6万年前
            (アフリカから始まった人類の拡散の流れ)
  ○第二段階は、今から約3300年前
            (おそらく、拡散の原因は掠奪闘争の玉突きだと思われます)

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<オセアニアとは>
オセアニアとはユーラシア大陸の東側と、アメリカ大陸との間に広がる海域と、その南側のオーストラリア大陸とを含む地域で、地球の表面積の3分の1を占める、文字どおり海の世界。
大陸としてのオーストラリアは、オセアニアの陸地総面積の86%までを占めている。オーストラリア大陸以外の南太平洋に点在する島々は、地理学的・人類学的観点からポリネシア、マイクロネシア、メラネシアの3地域に分けられ、地質学的には陸島と洋島に分類される。自然環境という視点では、大陸であるオーストラリアとその他の海域に点在する島々とはそれぞれかけ離れた環境を持っている。

   ●オセアニア全域地図(クリックで拡大します)
        『オセアニア 暮らしの考古学』印東美智子著より
このようなオセアニアへの人類の拡散は、二つのステップを経て達成された。その最初の移住は旧石器時代のことで、東南アジアからニューギニアとオーストラリアへ向けてなされた。そして第二段階の南太平洋の島々への移住を成功させたのは、もっと進んだ文化を発展させた新石器時代の農耕民だった。
<第1段階:オーストラロイドの拡散―旧石器時代>
人類のオセアニアにへの進出は、今から約5万~6万年前の更新世代である。当時は最終氷期にあたり、海面が現在よりも80メートルも低かった。そのため、東南アジア島嶼部周辺の大陸棚は陸続きになってスンダ大陸を形成していた。ニューギニアとオーストラリア、そしてタスマニア島も陸続きになってサフル大陸を形成していた。
しかし、スンダ大陸とサフル大陸の間は、海面が200メートルも下がって陸続きにならない箇所が多く、少なくとも80キロもの距離の海を渡らなければならなかった。両地域の動物相が大きく異なっているのはこのため。
移住者たちはスンダ大陸から、おそらく筏のようなものに乗って点在する島々を伝いながら移動したと考えられている。この移住者が当時のサフル大陸に拡散し、オーストラリア人(アボリジニ)とニューギニア島の大半の地域に居住する人びと(パプア人)の祖先になった。さらに、一部の人びとはニューギニア島の東方に位置するビスマルク諸島などのメラネシア島嶼部への進出も果たしている。この移住者は色が黒くて髪が縮れているなどの特徴をもち、オーストラロイドと呼ばれる。
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   ●スンダ大陸とフサル大陸 『オセアニア 暮らしの考古学』印東美智子著より
ニューギニア島の自然環境は、オーストラリア大陸とはかなり異なっていた。その二つの地域は、後氷期の海面上昇によって9千年前ごろに、オーストラリア大陸とニューギニア島は切り離された。もともと基本的には同一であったはずの両地域の人々だが、その後両者は交流のないまま、それぞれ独自の道を歩んでいく。
赤道のすぐ南側に位置するニューギニア島は、平坦な景観が大半を占めるオーストラリアとは対照的に、その地形は複雑で起伏に富んでいる。この島の沿岸部の低地には、湿地帯が広がっている。その背後には4000~5000メートルもある山々がそびえ立つが、その斜面には熱帯雨林に覆われ、いくつもの谷が刻まれている。一方、島の中央部にある高地は、赤道付近だというのに、夜になれば気温が5度まで下がるほど涼しい。ニューギニアには750もの異なる言語が存在し、このような島でパプア人は数多くの小グループに分かれて暮らしていた。
ニューギニアは独特な文化を持つが、最も興味深いのは先史時代のニューギニアで高地で独自に農耕が開始されたこと。本格的に白人の探検隊が高地に入ったのは20世紀の中ごろだが、その時、この島の中央部には100万人以上もの人々が暮らしていた。オーストラリアのアボリジニの人口が30万人と比較すると、この人口は桁外れ。この高地の人口を支えていたのが、イモ類やバナナなどの農耕だった。
<第2段階:オーストロネシア集団の拡散-新石器時代>
紀元前1500年ごろ、それまでオセアニアに分布していた旧石器文化集団とはまったく異なった文化をもった文化を持った集団が、東南アジア島嶼部をへて、南西オセアニア(メラニシア)へと拡散してきた。この集団は土器(ラピタ土器)を作り、植物栽培を行ない、家畜飼育を行った集団だった。形質的にはモンゴロイド集団に属し、言語的にはオーストロネシア語を話す集団だった。この集団を「ラピタ集団」、文化を「ラピタ文化」と呼ぶ。
オーストロネシア語は、アジア大陸(中国南部の内陸部と考えれている)に故地をもつと考えられている。それに対して、第一段階の移住者の子孫が話す言語は非オーストロネシア語と一括される)
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   ●オセアニアの人類の拡散経路 『国立民族博物館』HPより
このオーストロネシア集団は、それ以前あら協住していた旧石器集団を避けるようにして、砂浜のある沿岸部や、沖合いの小さな島などの居住して、早いスピードで東南へと拡散を続けた。ソロモン諸島は素通りし、南東離島のリーフ・サンタクルスからフィジーまで一気に移動する。この先も彼らはカヌーを進め、南西のヴァヌアツとニューカレドニア、そして南東のトンガ、サモアへと二手に分かれて拡散。サモアからマルケサスへ向かい、その後、北のハワイ、南東のイースター島、さらに南西のニュージーランドへと拡散した。
ラピタ集団は、早いスペードで南東に拡散したが、全員で次の島へ向かったわけではない。各地の遺跡には、東方の島へ拡散が行われた後も、それまでと同じように継続して生活する人々がいた。先の島へと進んだ集団と、残留した集団に分かれた。この残留した集団は、先へ進んだ集団の母集団であり、資源などを援助する重要な役割を果たした。この集団は先住の旧石器集団との混血を徐々に深め、メラニシア内の島々へと広がっている。このためメラニシアの人々の身体形質の特徴は、ポリネシア人とそれと大変違っている。
また、ラピタ文化の特徴の一つに交易ネットワークがあり、黒曜石の分布から島嶼間に遠距離交流が存在したと考えられている。
なお、ミクロネシアへの人類の拡散は、複数の時期に複数の方向からの拡散があっため、いまだ良くわかっていない部分が多い。更新世代には、ミクロネシアに人が住んでいた形跡はない。もっとも古い遺跡は、いまから約3500年前のものが見つかっている。最古のラピタ遺跡よりも少し古いことから、モンゴロイド集団が、ほぼ同時期に赤道の北と南で別個に東へと拡散したとも考えられている。



拡散第1段階での人口増加(原因は農耕の開始か?)に伴う部族間の闘争圧力の上昇、第2段階でのラピタ集団との接触の影響?など、ニューギニアは複雑な外圧状況にあったようです。詳しいことが分かればまた報告します。
その他にも、ラピタ集団とは?など気になることもたくさんできました。@さいこう
以下の書籍などを参考にしました。
   『オセアニア 暮らしの考古学』印東道子
   『人類がたどってきた道』海部陽介
   『オセアニア史』山本真鳥 編
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この記事には他にも面白いことが書いてありますね。
>ニスベット教授は、電話インタビューで次のように語った。「アジア人は、われわれに比べ、社会的により複雑な世界で暮らしている。われわれよりアジア人のほうが、他者により多くの注意を払わなければならない。われわれは個人主義者だ。われわれははた迷惑な乱暴者にもなれるが、アジア人はそんなことをするわけにはいかない」
>中国文化では調和が鍵になるのに対し、西洋では物事を遂行する方法を見つけることに重点が置かれ、他人にはあまり注意を払わないという。
>さらに、こうした見方の違いは何千年も前の社会生態や経済にまで遡って確認できる。
>古代中国では農民が灌漑農業という方式を考え出したという。稲作農家では、互いに助け合って水を分け合い、誰も不正を働かないよう気を配る必要があった。
一方、西洋人の見方は、古代ギリシャの時代に培われた。当時、個人農園でブドウやオリーブを育て、自分で売りさばく自営農家がたくさんあった。
>したがって、認識における違いは少なくとも2000年前から存在していた。
たとえば、アリストテレスは対象に注目した。岩が水に沈むのは、岩に重さの属性があるからで、木が浮くのは、木に浮く属性があるからだと考えた。だが、アリストテレスは、水については何も説明しようとはしなかった。これに対し中国人は、あらゆる作用は、それが起こる場にある媒介物と関係があると考えた。だから中国人は、西洋人よりもずっと前から、潮汐(ちょうせき)や磁性を理解していた。
東洋と西洋の違い、参考になりますね。
僕たちから見ると、中国人も結構自己主張が強いように思えますが、西洋人から見ると協調的なんですね。確かに、親戚縁者の団結は強いと聞きますね。儒教も人間関係の規範といえるし。

  • 2007年7月5日 02:09

へぇ~、すごく面白い内容ですね。
日本画と西洋絵画なんかも、そういう視点で観ていくと、新しい発見あるかもしれないですね。
改めて観てみようと思いました。

  • マニマック
  • 2007年7月5日 13:00

中東・ヨーロッパの征服・破壊のパラダイムのはじまり(ギルガメシュ叙事詩より)

以前から興味のあった、NHKスペシャル四大文明:第二集「メソポタミア」を、先日やっと観ることができた。
この番組では、栽培の始まりから「文明の黎明期」≒…

“目は口ほどにものを言う”ので、
背後の意識構造がからんでいるのは確かですね。
面白い着眼点だと思いました。

  • 大峰
  • 2007年7月6日 19:08

>視覚だけでなく、・・・<
日本の音楽(雅楽や民謡・童謡など)と西洋音楽(クラシック)との違いについても、東洋人・西洋人の聴覚や感受性の違いという観点で調べてみるのも面白そうですね。

  • echo
  • 2007年7月6日 23:58

euler hermes usa careers 共同体社会と人類婚姻史 | 東洋人と西洋人 視覚上の違い

共同体社会と人類婚姻史 | 東洋人と西洋人 視覚上の違い

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