2007年09月11日
米or小麦? 東洋人・西洋人の気質の違いと農業システム
東洋人・西洋人の気質や自然観の違い、その根本にある東西の自然条件、農業システム(水田稲作と小麦+牧畜)の違いについて、参考になる記事がありました。
農文協の主張:「21世紀を拓く稲作文明」より紹介します。
日本の水田(棚田)
まずは、西洋(ヨーロッパ)の「小麦+牧畜」って?
◆「小麦+牧畜」が自然征服型になる メカニズム
ところでしかし、なぜ小麦文明は征服的で自然略奪的なのか、なぜ稲作農業はその反対なのか。洋の東西に対照的に成立した2つの農耕型の特徴を洗い、征服的と共生的のよってきたるゆえんを探ってみよう。
農業をまずは食糧生産の場とみたばあい、目につくのは両者の人口扶養力に雲泥の差があることだ。
古代から中世へ、2圃式から3圃式に進んできたヨーロッパ農業だが、10世紀ころの小麦で播種量の3倍を収穫するのがやっとで、中世末の14、5世紀でもわずか5倍程度にすぎなかった。ところが、奈良時代8世紀の日本では最下位の田んぼでも7倍、上田では25倍もの米の収穫をあげている(河野健二、飯沼二郎『世界資本主義』岩波書店、山根一郎『日本の自然と農業』農文協などによる)。
播いた種の3倍とか5倍くらいの収量では収穫した麦の2割とか3割を翌年の種子用にとっておく必要があり、ただでさえ低い人口扶養力をますます低くした。
反収の低い直接的な理由は、水分不足による発芽不良や生育途中の枯死だったが、この理由がまた、水分の確保と地力回復のために休閑地を置かなければならないという事情を生み、人口扶養力の低さにさらなる追い打ちをかけた――。
こうした穀物収量の低さと休閑地の必要は必然的に人間1人当たりに必要な耕地面積を広大なものとし、勢い耕うん作業は畜力に依拠することになるが、この家畜は一方で、山や川とつながってないヨーロッパの閉鎖系耕地では、耕地内の唯1の肥料生産者でもあったから、広い面積に相応した多くの頭数を必要とした。それはまた、この家畜の放牧や飼料生産のための広い耕地を要求し……となっていく。小麦もできない、できなくなったところでは草を生やして肉生産をするが、この迂回生産のために要する耕地面積が、人間が直接穀物を食べるために要する面積の8~10倍もする、そもそも自然征服的なものであったことはいうまでもない。
こうしてヨーロッパの小麦+牧畜農業は、どこまでも面積を求める農業であり、外へ外へと向かっていかざるを得ない農業だったのである。
一方、東洋(アジア)とりわけ日本の「水田稲作」は?
山―川―田―海――開かれた生産システムの 核としての水田
この稲自体の優秀さをさらに助けたのが、日本の山、川、田のつながりである。育種学者の角田重三郎東北大学名誉教授は次のように述べておられる。
「子供のころにならった小学校唱歌の『汽車』(作者不詳)の第1節は、
今は山中、今は浜
今は鉄橋渡るぞと
思う間も無く、トンネルの
闇を通って広野原
であった。
日本の風景が、山と海と川、そしてなにがしかの山麓の平坦地で構成されていること、それらが繊細にいりくんでいることがよくわかる。そして日本の水田稲作は、この海と山と川の恵みを享受しているのである。」(『新みずほの国構想』農文協、1991年)
(中略)
こうして「この灌漑水田稲作は、森(山林)にささえられて成立しており、また川の遊水池を拡げ水位を調節するようにして成立している(地下水を汲みあげる方式もあるが日本では少ない)。そして降水は森に蓄えられ、ついで水田に蓄えられ、十分に利用されたのち海にかえる。その過程で森の養分(土を含む)は稲の栄養となり、森と水田の緩衝作用をへて適度の栄養成分をふくむ水が沿海に供給されて水産物の生産を助長する。つまり灌漑水田稲作の系は、〈海と森と川と田からなる生産の系〉、そして〈林産や水産も関係している生態系〉である、とみることができる。
稲作を主体としてみると、灌漑水田稲作は〈海と森と川に抱かれて成立した稲作〉であるといえよう。」(角田、前掲書)
(中略)
◆自然と人間の調和を求める稲作文明
水田稲作農業をまん中にすえたわが国開放系生産システムは、先にみたヨーロッパの閉鎖系のそれと比べたとき、その特徴はきわめて明瞭である。
第1にそれは、循環する水を仲立ちにした「開かれた自給」システムであり、それゆえに全体の調和を絶えず求める節度をもっていることである。山と川と田と海、これらが個々バラバラひとりぽっちなのでなく、互いに依存し、共生しあっている。その関係総体の中で再生産がおこなわれているのである。したがってこのシステムは、本質的に外に延び他者を侵蝕していく動機をもたない。それをやったら「共生」のバランスが崩れやがて自分の首をしめることにつながっているからだ。それは例えば、山をさらに切り開いて水田開発を推し進めようとした為政者に激しく抵抗した近世農民の英知にも反映されている。基本的に地力収奪的で、外へ外へ面積を求めていくしか方法のなかった小麦+牧畜の西欧農業との根本的違いである。
第2には、むらの原理が働くことである。ゆいや山の下草刈りの共同作業はもとより、田に水をいつ、どれくらいの量や割合で入れるか、同じ水系の上、中、下流の人たちが何度も話し合いながら全体を調整した。大きい農家と小さい農家の関係も弱肉強食のそれではなかった。水の循環を軸にした開放耕地系では、自分の田を荒らすことは他者様に申し訳ないという意識も働いた。自然の相互依存・共存性の高さゆえに人間同士、むら同士の共存・共生関係も磨かれたのが日本の、アジアの特徴だった。閉ざされた系のもと絶えずフロンティアを求めた牧畜農耕、そこでの非共存的「自立」した人間像との、これまた根本的な違いである。
東洋(アジア)とりわけ日本の稲作農業の特徴は、自然との調和(共生)の上に成り立つ生産システム=「開かれた自給」システムであり、対象が途轍もなく大きい自然であるが故に、徹底した共同作業(むらの原理=共同体)によりはじめて実現される、という点に集約できそうです。
>東洋人の心の底に残る本源集団性・本源共認性<(実現論)
その根本は、豊かな水(自然条件)とその中で生まれた水田稲作農業(共同生産システム)による共同体社会がベースになっていることが伺えます。 🙂
- posted by echo at : 2007年09月11日 | コメント (4件)| トラックバック (0)
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comments
明治時代にも「仙台四郎」という有名な福子がいましたね。彼の訪れた店はどこも繁盛するということで店主から歓迎され、地域で「福の神」としての役割を与えられ受け入れられていたようです。
katoさん、早速のコメントありがとうございます。
あの「福助」のキャラクターも、水頭症の人がモデルという説もあるようです。
「仙台四郎」さんにまつわる話など、紹介してくださると嬉しいです。
「福子」という言葉を初めて聞きました。なるほど、です。
かつては、障害者として隔離するのではなく、あるがまま受け入れ役割をつくることが出来る社会だったのですね。
「福子伝承」から学ぶ点は多そうです。
国生み神話にも「蛭子」(ヒルコ)という足萎えの奇形児がいて、船に乗せられて流された、という逸話がありますね。
各地の神社に蛭子、恵比寿(エビス)様が祀られていて、大漁祈願、船の安全祈願などの信仰が伝えられています。
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