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2007年10月16日

40年前の日本全国では、みんな盆踊りに参加していた。

私の幼少の頃(ほぼ40年前)、大阪の下町では盆踊りが盛んでした。小学校では櫓を組んで、百人以上が2~3重の輪を組んで踊っていました。町内でも、地蔵盆として小規模の盆踊りをお地蔵さんの前で行って、子供たちにお菓子を配っていました。
同じように日本全国に、盆踊りが様々な形で普及していました。今では村落共同体の崩壊と共に多くは廃れてしまいました。が、新たなコミュニティーにて、再起しているものや、大きな祭りとして観光化しているもの等、今でも様々な形で残っています。
どのような歴史的な経緯をへて、日本全国津々浦々に普及したのか、疑問に思って少し知れべて見ました。
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阿波踊り              おわら風の盆              西馬音内盆踊り     

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次の面白いサイトを見つけました。写真、及び以下の引用元です。
盆踊りの世界
盆踊りの歴史を調べてくれていました。長くなるので以下は抜粋版です。
全体を見たい人は、上記サイトへどうぞ。

■鎌倉幕府の滅亡から長く続いた南北朝の動乱が終わり、続く応仁の乱にいたる約80年の間に、盆踊りは誕生しました。
・念仏という「信仰」から、「踊り」というパフォーマンスに重点が徐々にシフトしていった。
・各地にたくさん残る「念仏踊り」のブームが起きていたらしい。
・初期の盆踊りは、こうした「念仏踊りブーム」の中から生まれました。というより、お盆という夏の一時期に踊られる念仏踊りの一種に過ぎなかったようです。
・「盆踊り」の記録上の初見は奈良。 
   かなり都市的な場所である点に注意。
   文化先進地である畿内 奈良、京およびその周辺。
    
 地方の記録は少なく、よくわからない。
したがって、まだ念仏信仰の宗教性を色濃く残した芸能であったようです。
当時の記録に「ナムアミダブツ」という文句からも、そのことがわかります

■戦国時代
・芸能面では、「風流」の中で踊りが「主」に。
・風流踊り
   風流傘、太鼓、指揮者
 ・「風流踊り」の大ブレイク。
 
・ 「踊りの世紀」へ
・掛け踊りの様子
  
(写真 京都町衆関係風景 祇園祭など ) 
・本当の意味での「盆踊り」の登場。
 ・主役は「町衆」。古層町衆といわれる。エリート色が強い人たちで、一般庶民全員が  参加者というわけではない。
  町衆は町ごとに「組」をくんで、互いに踊りを掛け合ったりした。

■戦国時代
・風流踊りから、盆踊り、諸芸能への移行
風流踊りから、阿国歌舞伎と歌舞伎、浄瑠璃などの日本を代表する伝統芸能が生まれた
現代に通じる各地の盆踊りの原型ができあがった。
念仏芸能から各地の伝統芸能が登場。
・豊国祭り 最後の「町衆」の風流踊り

■江戸後期
各地の踊りやうたの流行、相互取り入れ
   盆踊り内容の成熟化が進んだ
  ・「小唄」「口説き」の登場 
  ・「三味線」の登場 沖縄 堺 三絃 
伴奏(囃子)の登場で、盆踊りは華やかさを増し、娯楽的側面を強めた。
・盆踊り
・「盆踊り」の名称も定着しました。
・盆踊りの内容(スタイル)は、前代から大きな変容
  ・小唄、口説き
たとえば「恋歌」 本来の鎮魂の意味を失っていった
 ・三味線 
担い手 
   京のような都市的な場、町衆から、(村落)共同体へ。
盆踊りは、脱エリート化し、真に庶民の芸能となった。
   祖霊崇拝の側面を強めたと考えられる。
ただし、一方で参加をきびしく強制されるなど、共同体的なしばりの対象ともなっていった。

 ・権力によるたびたびの介入、禁止令も 武士は禁止・服装
 浴衣  小紋 など、現在の盆踊りの格好の基本形が成立。
   下駄
   小袖 振り袖

■明治・大正・昭和初期
・盆踊りの「禁止」
   隠れて踊った
   明治中後期には反動 復活していく
・盆踊りの「近代化」(風紀上の理由)
   時間帯 徹夜踊りの減少
うた 歌詞の変化 (卑猥卑俗なものが改められ、現代的な文句に)   形態   
 ・芸能の母胎としての村落共同体の衰弱 都市化  

歴史的に、いわゆる盆踊りとして大衆の文化となったのは、江戸時代後期のようです。
他の文献によると、男女が求婚する場にも使われたようです。
昭和以降は、都市部でも田舎出身の人達が都市部で新たな町内会を作り、その結束の祭りのとして機能していたようです。

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面白い視点ですね。私も調べてみました。
縄文人が何故蛇を信仰したのかが書かれています。
http://www.ne.jp/asahi/anesaki/ichihara/kyuukei/simenawa/simenawa.htm
以下引用です。
また、学習院女子短期大学講師 吉野裕子氏によると注連縄の形は『蛇の交尾』を擬したものだと云う。
氏は著書『蛇 日本の蛇信仰』(講談社学術文庫)で、蛇の形体・生態から各地の信仰・風習を説き、蛇信仰が如何に日本人のなかに浸透しているかを述べている。 以下にその一部を紹介します。
日本の蛇信仰は縄文時代の昔より引き継がれており、縄文人が蛇に寄せた思いの源は
蛇の形体が男根を思わせること
蝮などの強烈な生命力と、その毒で敵を一撃のもとに倒す強さ
脱皮により生まれ清まる再生力
性に対する憧れ、崇拝、畏怖、歓喜、それらが凝集して神与のものと考えられ、その象徴が『蛇』として捉えられた。
縄文土偶の女神の頭に蝮を戴き、有頭(亀頭)石棒を崇拝はその象徴である。

  • 河内のおやじ
  • 2007年11月28日 18:26

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共同体社会と人類婚姻史 | 「縄」にこめられた性の肯定視

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