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2007年12月31日

何で「夜這い婚」は衰退したの?☆特別編☆

こんにちは。
以前、3回にわたって、“何で「夜這い婚」は衰退したの?”をエントリーしたまりもです。こちら→
今回は、そのときに残った疑問、
食うに困る 都市へ出てゆくということになったのは何で
について書いてみたいと思います。
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img1_04.jpg 江戸時代にも大飢饉は何度もあったし、それ以前にも、人々が飢えで困ることはたびたびありました。
そのときは、共同体のみんなで知恵を絞り、間引きや姥捨て山等の厳しい手段をとりながらも、何とかみんなで村を守ってきました。
それなのに、明治時代になると、食うに困ると、人々は働き口を求めて村から都市へと出て行くことになりました。それは何でだったのでしょう?
その大きな転換点となったのが、歴史の授業でもお馴染みの『地租改正』です。詳しいサイトを見つけたので、いっしょに見ていきましょう☆
「明治・その時代を考えてみよう」より、「地租改正は何の為か?」から引用します。

 明治維新が終わり、廃藩置県を行った政府はその矛先を国家の基礎である農村に向けた。いくら藩を廃止しても、その収奪の仕方は幕府時代と変わったものではなかった。例えば物納制度の廃止がある。
それまでは、年貢は米で納めさせておき政府のほうでその米を売った代金を金に代えていた。この方法によれば、その年の米の出来具合によって税金の額が変わってしまう。これは、予算を作成する為に非常に不便な制度だった。
政府は、これに対応する為に地租改正を行った。これに先立ち政府は 1.田畑作物栽培の自由 2.土地売買・処分の自由 3.土地所有権の国家による確認を71年から72年と行っておりこれを前提として73年に発令した。具体的な内容は以下のようなものである。
1.これまでの年貢は土地の収穫の多少に応じてその何割かお年貢として現物でとったのを改め、土地の価格を政府で認定し、その三パーセントを地租として政府がとり、地租の三分の一を地方税として町村がとる。豊作凶作によって税金の増減はない。
2.元の年貢は村ごとにまとめてその石高にかけられ、村内の滞納者のぶんも五人組または村全体の連帯責任で納めたが、地租は土地所有者の個人からとる。その者が納税できなくても、だれも連帯責任はない。
3.地価は改正後五年たてば、地価により改定する。
(井上 清著「日本の歴史 中」より引用)

この中で目を引くのは 地価の3パーセントを地租として政府が取る部分である。税金の金納ということになれば 年の豊作・不作によってその必要な米の量は変わってしまう。その上市場を操作する者がいればその時期のみ価格を下げておいてより以上に米を放出させることも可能になった。農民にとっては、いままでの生産者としての立場から商品流通の市場理論に勝手に組み込まれてしまったことになる。
それでなくても明治維新により「天子様」の世の中になり楽になるはずだった生活がかえって苦しくなってしまったのである。

 安定した収入を得るために、政府は物納から金納へと徴税方法を大転換しました。だから、貨幣の殆ど流通していないような田舎のお百姓さんでも、年貢はお金で納めなければならなくなったのです。
お金を得るためには、都市へ米を売りに行かねばなりません。また、豊作・不作に関係なくお金で納税させるため、不作のときは、農家は苦しい思いをしてお金を得なければならなくなりました。そんな農家の足元を見て、米を買い叩く業者もあったことでしょう。売る米が底をつけば、都市へ出て行って、自らの労働力を切り売りしてお金を得るしかありません 😥
こうして、市場の外で豊かに暮らしていた農民も、否応無く市場経済に巻き込まれてしまったのです。
また、地租の設定そのものも、農民に対してかなり厳しいものであったようです。

 その原因のひとつは地租の設定の仕方であろう。勿論、地租改正によって「土地が個人のものになった」という利点があった事は見逃せない。しかし、土地に対する地租の決め方が問題だった。以下に地租決定方法について書かれた文章を見てみよう。
 「・・・しかし、実際の政府の意図は、旧貢租水準の『目標額』を上から強制的に押し付け、高額地租を確保することにあった。
政府はまず、国費の必要額にもとづいて各府県の地租収入予定額をきめ、府県はそれを各町村にわりあて、町村は各戸にわりあてた。上からの『目標額』設定、そして、それに応じて各戸の地租額が算定されたのである。

 全国各地で、地価の決定をめぐって、農民と改租掛官・地方長官との間に激しい争いがおこった。高い地価にもとづいて高い金納地租を払わされることは、農民にとってまさに死活の問題だったのである。そして地方長官は、この反対を強引な形でおしつぶした。
 府県の改租掛官は、各村からの上申を調査し、自己の見積によって査定して村民から承諾書をとった。この段階では、たとえ圧制になろうとも、強引に府県の査定が押しつけられた。農民側の立場に立つ戸長は被免され、総代は罰せられた。村請けの形で、村民一同が連署調印の誓書を書かされて、『目標額』を受諾させられた地域もある。あるいは『朝敵とみなして赤裸にして外国へ追放する』と脅迫した地方長官もあった。口による脅迫だけではなく、実際に投獄された例もある。いずれにしろ、政府があらかじめたてた目標達成がまず第一に優先したのである。・・・」(大島 美津子著「明治のむら」より引用)
つまり、必要とされる税金を取るため 強制的に地価を決定したのが地租改正の現実であった。しかし、地租改正の問題はここにとどまらない。むしろ個々の問題というよりも政府役人の考え方にあったのである。政府役人たちは、その考え方の基本から人民を保護するとか人民のために働くとかそういった気持ちがまったく無かったのである。よく、明治の高官達は「国民の為に努力した」とか「自分の私利私欲を離れ、日本の近代化に努めた」とか言う人々がいるがそうではない。彼らは手に入れた権力の魅力に取り付かれ、その力を手放さないように必死になっていた一種の亡者そのものだ。その彼らには 国民・農民の声は届かなかった。

 ひとたび市場経済に巻き込まれてしまえば、そこにいる人すべては、私権を手に入れなければ生きてゆけなくなってしまいます。私権を手に入れるために、生殖も生産も包摂した共同体 を離れ、バラバラの個人として生きるしかなくなった時代。それが明治時代なのです。

口減らしのための身売り、女工哀史の世界などは、まさに明治時代の政策が生み出したもので、村落共同体を解体し、夜這い婚を崩壊させ、「農民は貧しい」というのが常識になったのも、明治の税制改革が原因だと言えます。
るいネット「明治の税制改革が日本人を「貧しく」した」より

 豊かな共同体・充足できる婚姻制度を捨てざるを得なかったのには、こんな理由があったのでした。
今年も、もう終わりですね!最後まで読んでくださってありがとうございます 😀
来年も、もっとおもしろい記事をエントリーしていくつもりですので、みなさま応援よろしくお願いします

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comments

知りませんでした。
7歳までは「神の子」であったというのは、驚きですが、その時代からみれば、当たり前であったようにも思います。医療も整っていない状況下で、子どもが適用していくことは難しかったと容易に想像出来ます。
今は、医療が進歩して、外圧がほぼ「0」まで低下した状態で出産されます。その弊害も出てきて、「弱い子ども」となっているようです。
外圧を乗り越えて生きて行くことが、共同体で一人前としてやっていけると判断できるのが「7歳」であったのでしょう。
日本の歴史って奥深いです。

  • 河内のおやじ
  • 2008年3月1日 10:48

「河内のおやじ」さん、メッセイジありがとうございます。
本当に、昔は子供が病気などで無事に7歳まで育つ確率は今からするととても低かったようです。
まさに、子供の命は、神様にゆだねられている、と思ったのだと思います。

  • koukei
  • 2008年3月3日 09:36

子供の気になる話が・・・

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