2007年07月08日
何で「夜這い婚」は衰退したの?②
前回の続きです 😀
共同体を維持してゆくための実践的方法論である「夜這い」は、その後どうなったのでしょうか
今回もるいネットから、明治時代のお話を紹介します
今回も、続きを読む前に、こちらをポチっ とお願いします
ムラの実状に合わない制度がやってきて、「夜這い」はどうなっていったのでしょうか
夜這いの解体と一夫一婦制の確立2
<明治時代 一夫一婦制実施>
明治になって男女の結婚関係にも国家権力が介入するようになり、法令的な届出と戸籍記載による公認方式がとられ、一夫一婦制が実施された。これによって事実として結婚していても、登記しないと結婚とは認めず、「内縁」関係として私的に承認することになったが、こうした男と女の「法律」的慣行は、もともと日本の民俗としては存在せず、ただ国家権力によって導入されたものにすぎない。私たちの古い性民俗は多重的であって、単層的、つまり単一の法定的結婚様式をとらなかったのである。このことを理解しないと、夜這いその他の性民俗の性格がわからないだろう。
<明治時代 資本主義侵入>
電灯の普及と民家の構造変化も、夜這いの廃絶のために打撃を与えたのは確かだが、やはり資本主義の侵入、商品流通の社会構造の変革が根本的素因と思われる。
明治政府は、封建領主ですらしなかったような、まさに掠奪的地租を賦課して農村を荒廃に導いたのである。それは予定されたことで、いわゆる資本の原始蓄積、産業の資本造出のための手段であることは明らかであった。かくして土地を奪われた農民は都市へ流出し、産業資本のために安価な労働力を提供する貧民として定着する。ムラには、相互扶助の伝統があった。しかし土地を自ら放棄し、都市へ欠落ちしなければならなかった人たちは、出身の郷村とも絶縁するようにして都市へ逃亡する。低賃金による酷使と重労働、災害による死傷、都市の一隅への集中、貧民街の成立、こうして労働者、貧民の子女は遊廓その他へ売り渡され、残った妻たちも潜行的売春で漸く露命をつなぐという図式ができた。多くの親たちの中には、進んで子供を売り渡した者もあっただろう。しかし、その意識がどうであれ、娘や子供を年季奉公で売り渡し、遂には妻にまで売春させねば生きてられないような、荒廃した世界を富国強兵とか、万国無比の国体の影で築き上げた独占資本と国家との責任は、さらに重大なものであったといわねばならぬ。
もとの投稿はこちら リンク
明治時代になって、実際の婚姻関係とは別に、一夫一婦制が法的に強制 🙁 されます。さらに、資本主義の流入によって、人々はバラバラの労働力として相互扶助の関係から切り離され、みんなで維持していた共同体は、解体させられてしまったのです
その過程を具体的に紹介したものが、次の投稿です
夜這いの解体と一夫一婦制の確立3
<明治初期~後半 娘宿の激減→消滅の原因>
若衆仲間は二十人、三十人とあるわけだが、娘仲間は女工・女中などの出稼ぎ、子守、女廊などに売られたりで、娘分として残るのはせいぜい十人か、十五人ぐらいであり、そのうちから二、三人は結婚して脱退するから、若衆組に比すると人数は少なくなる。それが娘宿が激減し、消滅して行った原因であった。絶対数からいえば、常に娘の数は、若衆よりも少なかったわけで、したがって争奪も激しいし、他所のムラへ遠征することにもなる。また山村とか小さいムラになると娘だけでなく、後家、女中、子守まで加え、それでも不足すれば嫁などまで開放することになった。こうなると、娘宿は成立せず、女の講中が代わって出現する。したがって、(一部を除き)娘宿というのは急速に減退した。
<明治時代 若衆仲間(ムラの組織のひとつ)の第一次的解体要因>
貧農や小作人との対抗のため、ムラの地主たちが郡、あるいは県段階で結合するようになる。地域的、地方的横断組織が発達してくると、すぐに影響が大きくでたのは結婚である。それまででも富農の間では村外婚が普及していたけれども、一般的には村内婚が多かった。こうして地縁的関係よりも経済的関係が優先されるようになると、村外婚が多くならざるをえない。それに明治政府の地方自治制度創出で戸長、村長などの格ができ、次に村会議員、群会議員、県会議員が出現し、ムラムラの家の格が明確になってきた。ほぼ同格の家と縁組みするのに適当な基準が、政府によって公式に作られたのである。そこで富農や地主層は村外婚、一般農民や水呑み層は村内婚と分化が進んだ。
村外婚をねらっているような家では、娘を密封し、「夜這い」から離脱させる。教育勅語を盾にして貞操を守らせる方が、高く売り出せるからだ。男の方も京都、東京などへ遊学させることが流行し、そのうち地方にも中学校が建てられ、かれらの希望を満たすことになる。どこのムラにでも「ハカマギ」(袴着)の二人や三人できることになり、ムラの若衆から敬遠され、排除するムラが多くなった。昔は全的機能をもっていた若衆仲間は、こうして富農層の子弟を男女とも除外するようになる。
これが若衆仲間の第一次的解体要因であり、後に若衆組の経験がない富農層の子弟が、ムラの指導者となって若衆組を支配し、利用するようになる基を作った。
もとの投稿はこちら リンク
都市への労働力の流出によって女が減り、娘宿は激減してしまいました。加えて、ムラの上層部(統合階級)から順に、娘の性的商品価値を高めるために夜這いから離脱させ、あるいは息子は都市で勉強させ、いずれにしても村内婚からの離脱がどんどん広がってゆきました。その結果、ムラの若衆は、共同体をともにつくってゆく仲間 ではなく、支配・被支配の関係 に置かれてしまいました。
みんながみんなを充足させる夜這い婚は、こんな状況では、当然成立しなくなってしまいます
(さらにつづきます )
- posted by mori-ma at : 2007年07月08日 | コメント (3件)| トラックバック (0)
trackbacks
trackbackURL:
comments
女の「出産」と男たちの「共同漁」が一連の繋がりを持つ集団行事になっていることは興味深いですね。
女の役割(出産)、男の役割(漁)が明確に分かれていながら、同時にそれらが組み合わさって一つの集団課題となることで、喜びや感謝を集団みんなで分かち合える仕組みともいえそうです。
出産を島全体で祝うって、すばらしいですね。
出産後の育児や、成長に伴う教育なども、集団としてになったりするのでしょうか?
非常に興味が湧きます。
ご存知なら教えていただけますか?
eolis euler hermes sfac fr 共同体社会と人類婚姻史 | 出産・子育ては集団全体の課題
comment form