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2008年03月14日

明治時代、日本の庶民である娘・若者達はデートをして相手を決めていた。

昭和10年に、九州長崎の西方100kmに浮かぶ五島の島々に,民俗学者の「瀬川清子」が訪れた。
そして、地元のおばあちゃんたちに、若い頃の「村の娘の結婚」について聞いている。
今から約120年位前だから、今の若者からすると4~5世代前の日本の娘たちである。
あなたも、当時の日本の「娘達の結婚」について、おばあちゃんの話に、耳を傾けてみませんか?
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「婚姻覚書」瀬川清子著  よりの引用です。
tonboro.jpg
写真は、五島列島の奈留町 「前島のトンボロ」:五島市観光情報サイトより 
●おばあちゃんの話

私たちが娘だった頃は、年頃になれば娘宿というのに集まった。親の側ではわがままをするので、他人の飯を食わなければならない。娘宿に集まると、自然に教育されるから、「よせつけてくれろ」と親が娘宿にたのむ。若もの宿、娘宿それぞれ十軒もあったであろうか。

 夏冬、午後の七時半から八時ごろまでのあいだに宿に集まった。
ここでは二十年前まで地機(じばた)を織り、麻も植え、養蚕もして繭もとった。
十二歳からの女の手仕事をおしえられ、やがて宿仲間に入れてもらって娘宿に行く。十七、八歳のころには綿をしのにした物が四十匁、その四つの一つの十匁を一夜でひかなければならない。
ここは男は漁をして農業の方を手伝わないので、娘は昼に畑をし、夜は宿に集まって糸をひいたのである。

・・・・(中略)・・・・十五年前からは木綿の糸ひきもなくなったので、娘たちは娘宿に泊まるだけであった。
村の娘はたいてい娘宿にきていて、二十くらいまでには相性相性で夫婦になるのであるが、婚礼のときは、宿親が子として連れていってくれたものである。
同じ宿にとまっている娘がつれ嫁になってついて行く。夜のことであるから宿親の責任は重かったのである。

あるワッカモノに対する考え方が娘と宿親と違う場合は、宿をかえることが間々あった。これは宿親と相性でないのだから致し方ない。
「あの若もの一緒になろうとおもっている。」と言うことを、同宿の友人が、宿親に察してもらえるようにとりはからって、宿親から生みの親に話してもらったり、年かさの娘から親に匂わせてもらったりしたのである。
宿のおとっさんは、大事件でなければ出ないのである。

親が娘を頼むと、娘宿に連れてくる
娘宿で、糸紡ぎなど手仕事を覚えた。
娘宿で、娘同士の集団により規範を覚え大人になる。
娘宿、若者宿は、結婚相手を見つける大切なシステムだった。

木綿ばひくひくサマジョ(恋人)ば待てば、サマジョまちきらで、はた枕
はたは木綿車である。若ものは娘宿に遊びに来た。
働き者も良いが、やはり顔立ちのいいのがよろしかった。
娘らはカテッコで髪を結った。ふだんは島田、もの日には天神髷にイガノコをつけた。
若のもの日には、娘宿に酌とりを借りに来たが、終えると必ず宿まで送り返すのが規則であった。
年上のものから、だんだんに嫁に行って宿からひく。年下のもが年々入ってくる。
他村の若者にねんごろした娘は、村のワッカモノに海に投げられたり道普請をさせられた。

娘宿は、娘の結婚相手(若者宿)との出会いの場でもあった。
生みの親以外に、宿親が出来て一生の相談役となった
若者宿の若者たちは、村の自治の重要な部分を担った
村の性も共有であり、村外の若者とねんごろになることはタブーであった。
dozaki.jpg
写真は、五島市奥沢村「堂崎教会」<禁教令解除後の五島における最初の教会>: 五島氏観光情報サイトより

五島のある小学校の校長さんが、こんな話を聞かせてくれた。
十年余り前に、この島に他国の漁業者が入ってきたときに、娘宿が不安であるからと言う若者仲間の意見で、私が口をきいて、娘宿を解散したことがある。そうめんなどを煮て、分かれの会を催したところ、娘たちは私を非難して、
「先生わるっかいな、御祝言(結婚)さえんじゃないか、相手見つけれん」
といった。
一年たったらまた復活したのである。

ある島では、風俗壊乱のかどで、警察官がとまり宿の閉鎖を命じたところ、若者たちは、
「医者むかえの急場をどうする」
といって反対したそうである。
そのころ島々では、店といっても、酒、そうめん、駄菓子くらいしかなかったので、若者仲間で買物船を出して、村中の家々の買物を責任をもって引き受けていたのである。
急病人があっても、とまり宿に行けば医者むかえの船を出してくれる、不幸の際には、薪とり、米つきをしてくれる、息子や娘を宿に出しておかないと、病人が出たり不幸があったとときに、若者連中が見てくれないので、どの家でも子供を仲間にいれてもらった。

生みの親元で大切に育てられた幼児時代を経て、若者同士の中に入って集団規範を学ぶ若者宿、娘宿は興味深い制度である。
そして、村の重要な役割も担いながら、若者宿、娘宿は自治運営されている。
集団として大切な「性」に関しても、若者達、娘達の主体性に任せながら、結婚して大人の仲間に参画してくるのを、村の人々は期待していた。
若者教育、村での役割(緊急対応など)、さらには、男女関係までも包括した、「娘宿」「若者宿」のシステムは、非常に良く出来た制度である。
明治時代になって、西洋文化人から見ると、若者達が主体的に結婚相手御探す為の性関係は、「風俗壊乱」の行為であり、文明国の文化でないと一方的に決め付けられて、解体されてしまった。

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comments

 そんなに栄養価の高い骨を他の動物が食べなかったのは、やっぱり、硬くて食べにくくておいしくなかったからなんでしょうね。
日本でさえ、今の季節、炎天下一時間も活動すると、倒れそうになります。
初期人類は、他の動物が活動しない過酷な炎天下に活動し、食べ残された骨を漁って生き延びるために、長い時間を掛けて、歯や顎や、手も骨を食べるのに適したように進化したのですね。

  • taama
  • 2008年7月10日 03:26

>taamaさん
コメントありがとうございます。
他の動物が見向きもしなかった骨を、食べようとしたのは、かなりの外圧状況があったと推測できるのかもしれません。
vol.1で霊長類の様々な手を紹介しましたが、見ていただいたようにいろんな手の形があります。その手に応じて様々な食性になっています。
様々な霊長類が様々なニッチを見つけ可能性収束していっています。アイアイとかもかなりすごいです。
また追って紹介させてもらいますね。

  • yidaki
  • 2008年7月10日 13:30

アフリカのサバンナでは、昼の炎天下がニッチだったというのが、意外であると同時に、なるほどぉ~と思いました。今後もこのシリーズ期待しています☆

  • 遥可
  • 2008年7月10日 20:02

>遥可さん
どうもです。
わたしも初期人類は洞窟に住んでたと聞いていたので、夜こそこそ洞窟から出るイメージを持っていました。
しかし、アフリカのサバンナの昼の炎天下ほど生物にとって過酷な環境はありませんよね。
過酷な昼の炎天下だからこそ自然界のニッチがあったんですね。

  • yidaki
  • 2008年7月10日 21:10

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