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2008年05月13日

水利が育む日本の共同体性

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日本の農村では太閤検地で惣村の解体が徹底的に行なわれたにもかかわらず、共同体性を失うことはありませんでした。
水利を必要とする「稲作」が農村の共同体性を育み続けたと言えそうです。
滋賀大学の筒井正夫教授が現在の農村の状況を綴ったレポート【近江文化私観】 を紹介します。
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以下引用

文化とは人々が長い年月をかけて土地を「cultivate」し、衣食住の生活風土として形成してきたものであるとするならば、その根源は伝統的慣習が根強く生きる農村社会に見出せるはずである。そんな思いを抱いて僕は、今から十年ほど前近江八幡の浅小井という集落に住み、村民一年生として寄合にも出席し、村祭りにも松明作りから参加して約一年半を過ごした。
そこで見出したものは、丸山真男が「個の析出を許さず」と言ったような共同体規制が個を飲み込んでしまう社会でもなく、また逆に個が突出して孤立し共同性を喪失してしまったような社会でもなかった。そこでは、村人たちの「個」としての活発な存在と同時に、ムラ社会=共同体としての村落の強さが共存していたのである。

近畿は古くから麻・綿・絹などを用いた様々な物産を生産し商品流通も発展し、「個」の成長は早く、経済的感覚にもけっして疎くない。現在でも実に盛んな祭や町づくりにも村民たちは活発に発言し積極的な関わりをもって活動している。そしてそうした強い「個」が、琵琶湖と周囲の山々に囲まれた比較的狭い耕地に集住して村落を形成している。東北地方の農村のように、広大な土地に個々の農家が散居しているのではない。それはまるで「街」といってもいいほど、一つ一つの家々が「密集して」暮らしている。したがって、何世代にもわたって顔と顔を突き合わせながら、「個」と「個」が主張しあいつつ、仲良く暮らしていかねばならない。
しかし、否が応でも「個」が共同し合わねば、生きていけない仕組みになっている。それは、この地が古代から開け、耕地のほとんどが水田として開発されてきたことに由来する。上流の者が使った水を自分達がもらい、それをまた下流の人々に利用してもらう。水の管理と運用を通じて個々の農家は否応無く協力を余儀なくされる。しかも近江の川は、琵琶湖と周辺山系に挟まれて短いため流量が少なく、ために旱害に頻繁に見舞われるが、一旦大雨が降ると琵琶湖の水と天井川が容易に氾濫して大洪水をもたらす。日照りの時は、同じ水系の農民たちは、一つの命綱にしがみついているように団結し、限られた水源を巡って隣り合う水系の農民と、血で血を洗うのっぴきならない騒動をも引き起こす。しかし、洪水後の水利復旧時にはまた争った相手とも共同していかねばならない。
この「水」という人力では如何ともなしがたい自然力を前にして、強い「個」はどのようにして人と人との「和」を、そして人と自然との「和」を形成していくことができたのであろうか。
その一つは祭の存在である。農作業の合間合間に自然への恐れと感謝の気持ちをささげ、五穀豊穣や家の永続を願う行事は、同時に、村民一人一人がさまざまな役を負わされて融和を図り、遊興に興じ、時には水争いの村落間の融和さえ図る工夫がなされていた。
その祭の根底を支えている精神風土は、自然信仰と祖先信仰が合体した土着の産土信仰と、人間の個としての悩み・苦しみからの解放を諭す仏教とが、長い年月をかけて、互いを認め合いながら融合した本地垂迹の宗教的風土である。近江の村落には必ず複数の神社と仏閣が存在し、共存している。

中世から近世、近代まで、農村では水争いが絶えず起こってきました。
渇水時には、村同士で激しく水を奪い合いつつ、洪水時には協働して復旧に当たる。そのような繰り返しの中で、村内部の人々は決して家族単位でバラバラになることなく、村全体の課題をみなで担う共同体性を持ち続けてきました。
また、各農村が絶対的に必要とする水をめぐり、村同士が争うことをいかに回避するか、力のぶつかり合いを避けるかを、様々な工夫をしながら乗り越えてきたようです。
上記のように祭による融和以外にも、水争いを儀式的に行なう事例などもありました。
最後に、水源の上流の村と下流の村が力の衝突を避けて儀式として争う、 滋賀県で昭和初期まで400年間続いた「餅ノ井落し」という慣わしを紹介します。 【昭和まで続いた戦国の奇習・餅ノ井落し、水上の礎】
以下引用

 水田が白く乾き、いよいよ亀裂が生じはじめると右岸大井組の各集落は合議の上、「餅ノ井落し」を決行することになります。神社の鐘を合図に各集落の半鐘が乱打され、水利役員は白装束に紋付羽織陣笠、一般農民は白襦袢、白帯、白鉢巻をなし、神社参拝の後、6尺棒を手に餅ノ井へと向かいます。これを裸で迎える餅ノ井の役員。
大井組「旱魃になったので水をまかし(開放)に来た」
餅ノ井組「欲しければ力づくで取るがよい」
かくしてクライマックスの「餅ノ井落し」が始まります。まず、餅ノ井堰を切り落し、さらに松田井堰も落し、自分達の集落へ水が流れるのを見届けると、歓声を上げながら引き上げます。
その後、餅ノ井組の集落は堰の修復に取りかかりますが、これも大井組隊伍の列が井明神橋から消え去った時という取り決めがありました。したがって、大井組は一滴でも多く水を得るため白装束の隊列は数百人、時には千人を超えたと伝えられています。
また、両岸に水田を持つ集落は微妙な立場であるため、紺の法被、黒帯、豆絞りの鉢巻姿で樫の花棒を担ぎ、山陰にひそむ形で参加したと言われています。

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【初期人類は母系か、父系か?この点について河合氏は「母系」「双系」「父系」のどれになるのかは外圧状況によって変化するとし、したがって初期人類は「母系」「父系」のどちらの可能性もある】
とあります。
母系だとどの様な外圧対応で、父系だとどの様な外圧に優位と成る野か、これから解説されてくるのでしょうか?
楽しみにしています。

  • koukei
  • 2008年8月18日 22:52

koukeiさん、こんにちは。
>母系だとどの様な外圧対応で、父系だとどの様な外圧に優位と成る野か、これから解説されてくるのでしょうか?
がんばってみようと思っているところです。
ただ、現在の霊長類学の成果から、現在のサル集団の様子は分かるのですが、集団が形成された当時の外圧状況までは分からないのが現状です。
そこで、「霊長類群れ社会を見る視点」を活かして、霊長類学の成果を再構築できないか?と考えているところです。
どここまで出来るかわかりませんが、チャレンジしてみようと思いますので、どんどん“ツッコミ”お願いします。

  • さいこう
  • 2008年8月19日 00:03

mbt voi shoes 共同体社会と人類婚姻史 | 霊長類の群れ社会の進化(3)~霊長類群れ社会の5つの社会型

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