2010年11月26日
夏は西域のチベット系、殷は山東省の沿海民族、周は西北の牧畜民
夏(前2070年頃~前1600年頃)はチベット系
夏の時代のことはよく分からない。
夏の啓という王様(夏王朝の先祖)については異常出生説話がある。
禹が治水につとめて働いているとき、熊の姿となって山下をめぐっているところを、禹の后がそれをみて恐れ、石になってしまった。その女は禹の子をはらんでいたので、禹はその石の前に立ち「わが子を返せ」と叫ぶと、石が割れて啓が生まれたという。
西域の方を夏といい、夏は大きな顔をした男が、足を挙げて踊っている形(右図)。顔が大きく、背が高い。
これはだいたい西域の系統で、東洋人ではない。夏系統の民族が中国の西半分を占領していた。後になって西をつけて西夏という。
(注:後の西夏(1038~1227)は、黄河が湾曲するオルドスに興ったチベット系のタングート族が建国した。)
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殷(前1600年頃~前1050年頃)は山東省の沿海民族
殷は山東省から興った国。
竜山文化の一番古い黒陶文化が残っている山東省から、河北、河南に進出して殷王朝を建てた。まず北は河北省の一番北、モンゴルに近い藁城(コウジョウ)、そして西の洛陽のすぐ手前にある偃師(エンシ。夏王朝の都)まで一気に進出し、滅ぼしてから退いて鄭州(テイシュウ)に都する。南は揚子江を超えて寧郷(ネイキョウ)まで来ている。
王朝の版図として、最大の外辺部分に非常に優れた青銅器を配置して、異民族に対して邪霊を祓うことを建国の第一の仕事とした。
寧郷の山の西に、南北に連なる武陵山脈があり、水稲文化を早くからもっていた苗族がいた。古くは南人と呼ばれ、非常に強悍で、殷にとっては恐るべき敵であった。南(右図)は銅鼓の形を示す字。
それで、殷人は西の方の羌(キョウ)族を祭祀の犠牲に用いることが甚だ多く、50羌、百羌、時には300羌を牲殺した。羌は集団で羊を飼い、後頭に辮髪(ベンパツ)の形を加えた字形が多いので(右図)、今のチベット族にあたる。このような大量の人牲はたぶん断首葬に用いられたもので、首祭りの呪的儀礼は、東南アジアから太平洋諸島にわたる未開の社会に残されている。
殷王朝は、日本の古代王権の性格と以下の点で非常によく似ており、東アジア的形態といえる。
1.婚姻制と王位継承
王統の間で近親婚(族内婚)、つまりイトコ婚が行なわれており、姉が嫁入りするとき妹も一緒にひきつれて行った。王位継承は兄弟相続で直系ではなかった。継続上二つのクラスがあり、甲乙のクラス、次に丙丁のクラスが継ぐというように交替の形で行なわれた。
2.神話
天地創成以来の神話をもち、その神々の子孫として王統譜が構成されている。
3.王朝の形成
各地の部族の首長を政治的秩序のもとに組織するために、(「部」的な)職能的部族として王室に奉仕させる形態で進められた。
4.文身・入墨の風習
文身の俗は東アジアを中心とする太平洋沿海諸民族のもので、内陸には存しない。
5.玉や子安貝を霊的なものとして珍重した
これも中国大陸のなかでは殷だけに特徴的に見られる。そして、あらゆるものが霊的な存在であるとの汎神論的な世界観をもつ。
殷は、ゆたかな農耕社会を基礎として成立し、まつりを季節的なリズムとして営み、多くの神々とともに生きてきた。
なお沿海族はえびす、夷という。夷という字は腰を曲げた字(右図)。普通の人なら直立するが、日本人も沿海の人も、みな夷居(イキョ)してお辞儀をする、それで夷という。
周(西周:前1050年頃~前770年)は西北の牧畜民
周は陝西省の渭水盆地を本拠地とする
(注:渭水盆地は関中(カンチュウ)とも呼ばれ、中国古代の政治的中心であり、西周の鎬京(コウケイ)、秦の咸陽(カンヨウ)、前漢・唐の長安などの都はすべてこの地に営まれた)。前14世紀頃から殷に服属する有力な邑の一つであったが、化外の民であったであろう。
周はその伝承から考えると、おそらくもと西北の牧畜族(騎馬民族のような少数民族)。かれらは姜嫄(キョウゲン)の感生帝説話のような祖神の物語をもっていたが、神話の体系をもっていない。文化的にも後進のものであった。
長子相続と同姓不婚の宗族
姓を同じくする父系の親族集団を宗族といい、血縁を政治支配の原理とする。宗族は長子相続と同姓不婚を原理とし、その嫡流(本家)を大宗、次男以下の分家を小宗という。宗族は大宗の強力な統制のもとで、共通の祖先祭祀などを通じてつねに一族の団結に務めた。
姓組織(=同姓不婚、近親婚への禁忌)は、狩猟・牧畜族のもの
周は姫姓(キセイ)といい、姜姓(キョウセイ)とは古くから通婚の関係にあった。
姜姓の諸国は、羌族が土着して中原諸族の一つとなったもので、羌の字形からみて牧羊人であり、辮髪をしており、チベット系の種族である。羌族は牧畜族ではあるが、あまり戦闘的な性格をもたなかったようである。
(しかしこの温順な種族も、かつては苗族とその地を接していて、激しい闘争を繰り返したことが神話として伝えられている。)
周は飾りを施した楯のかたちで(右図)、この特殊な楯を種族のしるしとしていた。かれらは、通婚関係にある姜姓の諸族からみても、好戦的な種族であったらしい。
天の思想
周は、西方の諸族(西北の夏系諸族)と連合して殷をうち、殷の帝辛が再度にわたる東征によって国力を消耗しているときに、これを破って周王朝を建てた。しかし周には、殷に代わりうる神話がなかったので、その王朝の秩序の基礎として、新しい原理を求めなければならなかった。
王たることは、ただ帝の直系たるその系統の上にのみ存するのではない。それは帝意にかなえるもの、天命を受けたものに与えられるべきもの。天命は民意によって示され、民意をえたものこそ、天子たるべき。民意を媒介として、天の認識が生まれ、天命の思想が成立する。天命の思想は、殷周の革命によって生まれ、革命の理論であるとともに、周王朝の支配の原理でもあった。
周人は帝を非人格化した一つの理念としての天を、究極のものとした。これによって、周は古い神話と断絶した。神話の世界は滅び、理性的な天がこれに代わった。
呪的な神秘な力による支配から、内的な徳性、精神的な力に本づくものとなった。
牧畜的な社会を基礎とし、周囲の遊牧民との果敢な闘争を生き抜いてきた周族から見れば、殷は神話のなかに眠る社会であった。
(参考)白川静『漢字-生い立ちとその背景-』『続文字講話』、木下康彦他『詳説世界史研究』
- posted by okatti at : 2010年11月26日 | コメント (2件)| トラックバック (0)
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