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2010年11月29日

シリーズ『共同体社会と本源の心』3~生命の本質への感謝

こんにちは。
『共同体社会と本源の心』、3回目です。
『共同体社会と本源の心』① ~新たな期待=本源期待とは何か?~
『共同体社会と本源の心』② ~「自分らしさ」を理解できない人々
前回は「自分らしさ」という観念を持たない先住民と、「自分らしさ」を求める現代人について紹介されました。
続けて今回は、自分らしさの原点=「自我」⇒「感謝」について考えみたいと思います。
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まずは、るいネットより「生命の本質への感謝」について紹介します。

まずは、私の愛読書、「さまよえる日本人の魂」の中から、非常に感銘を覚えた文を紹介します。
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(前略)そのように考えると、個人を絶対化する考え方が、いかに人間の生命の法則に矛盾しているかが見えてくる。 デカルトのように、「我思う、故に我あり」の「我」だけが確実で、 そこから一切の哲学が出発するというのでは、やはりまずい。 自分の中には、生命というものが誕生して以来の生命があり、 そしてこれは未来永劫の生命につながっているのだという自覚が必要なんです。 それを倫理の根底に置くべきだと思います。
デカルトは彼の小さな部屋で、近代哲学の始まりを告げる「我思う、故に我あり」という言葉をつくり出したけれども、 私は孫と故郷の田舎へ行って、そこの自然の中で新しい哲学の原理を考えた。 (中略)人間と自然の出会いが永遠に循環する。人間は自然に出会い、また次の人間も同じように自然に出会い、 そういうことが永遠に繰り返されていくのです。
それが生命の本質ということになるのではないでしょうか。
昔の人々には、そのことが直感的にわかっていたのだと思います。
われわれはそこに、もう一度この人間と自然の出会いの原点にかえって、 新しい哲学の体系を生み出さなければいけないのです。(梅原猛)
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現代を生きる我々に欠けているのは、この著者の述べるような、「生命の本質」への「感謝」であると思います。
人は、人との関わりの中、あらゆる生命との関わりの中で生きている、「生かされて」いる 。そしてその繋がりは時を越えて未来へと紡がれていく。そのことに感謝することを忘れ、こだわり続ける「我」に一体どれほどの価値があると言うのでしょうか。 こだわりつづける「価値観」や「観念」にどれほどの意味があるのでしょうか。

“個人を絶対化する考え方は、人間の生命の法則に矛盾している、、、”
生命の法則を無視してまで個人を絶対化した哲学とは一体なんなのでしょうか?
また、人との関わり、生命との関わりを忘れ、こだわり続ける「我」とは一体どのように生まれてきて、どんな意味があるのでしょうか?

「我思う、故に我あり」
我思う、故に我あり という言葉は個人主義思想の礎として、あまりにも有名な言葉である。
ところで、この「全てを疑った上で最後に残るのは”思惟する存在である自己”である」という到達点は、あまりにも過激である。その現実否定の過激なスタンスは、これが支配観念として人々の上に君臨している現状を思えば、その過激性=劇薬性という一点で驚嘆に値する。
私は観念機能とはあくまで現実を対象化するために存在すると考える。生物は全て現実を対象化して生きている。そして生物学上で人類が進化したといえる最大の武器はこの観念機能による現実の対象化の機能であろう。それは人類の生命線といっても良い。
その観念を現実から180度「転倒」させ、思惟=現実を捨象した自己の頭の中に立脚点をおいたこと。これは構造的にはかつての神の位置に個人を措定し直したに過ぎない事を意味する。
これこそが個人主義哲学の最大のペテンだと私は考える。

「自我ではなく、共認こそ原点である」
実際、人格の形成は、母子や仲間との親和充足体験=期待・応合回路の形成をもって始まります。そして、期待・応合回路が発達してゆくにつれて、その先に課題共認や役割共認や規範共認あるいは評価共認etcの共認回路が形成されてゆきます。それに伴って、周りのそれら様々な共認内容に対する否定を源泉とする自我回路が形成され始めるのです。共認の敵対物たる自我は、その後しばしば凶暴な他者否定・自己正当化の相貌を露わにします。それに対して、親和共認や役割共認や規範共認etcの共認回路が自我回路を制御(一部は封印)することによって、人格は成長してゆきます。
ところが、近代人は人格の形成を「自我の確立」と呼び、全ての学校で「自我の確立」を善とする染脳教育が行われています。これは、事実に反するとんでもない誤りであり、霊長類の命綱たる共認機能に対する極めて犯罪的な破壊行為でしょう。事実は、『共認の確立』こそが、あるいは象徴的に云えば『規範(意識)の確立』こそが、人格の形成なのであって、もし共認を捨象して自我だけを確立させれば(自我は決して確立など出来ませんが)、分裂病その他に発狂して終うに違いありません。(現代人が多かれ少なかれ狂っているのも、その様な自我思想や自我教育の所為ではないでしょうか。)

近代の“豊かさ”は市場社会の発展によってもたらされたわけですが、市場社会の原動力は私権獲得の欠乏であり、私権の根っこには性的自我の欲求があります。この醜い下半身を正当化した観念が自由、個人、人権などといった近代思想であり、私たちは長い間この近代思想に基づいた教育を受けて、疑うことを知らずに生きてきたわけですね。
しかし、2008年リーマンショックにより私権観念は完全に消滅しました。これまで社会を導いてきた近代思想は実は間違い(騙し)ではなかったかと誰もがはっきりと認識し始めました。これは、ついに私たちが近代思想の呪縛から逃れ、真に“自由に”現実を対象化できるようになったということを意味します。
このような状況においては、もはや「我」にこだわり続ける意味はありません。
再び「生命の本質への感謝」より、

いきなり、「自我」を封鎖や制御しようとしても、無理な話であると思います。 これまで議論されてきたように、「自我」は他者否定・自己正当化の構造です。 その「自我」を力づくで封鎖しようとすれば、そこに断層が生じて当然でしょう。 封鎖や制御する方法を考えるのではなく、まずは一つ一つの事象に「感謝」=肯定視していくことから始める、まずはそこからだと思います。
自我を、あって当然のものと諦めるのではなく、制御しようと苦心するのでもない 、その自分自身の自我を認識した上で、 集まった集団内における、一つ一つの関係に感謝し、肯定視していく。 これが、本当の意味での「共同体」を構築していく第1歩であると私は考えるのです。

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“自我ではなく、共認こそ原点である”
人類の本源性は共認にある。
“本源の心”とは人類500万年の進化によって塗り重ねてきたものであり、私たちの心の奥底に脈々と受け継がれている。たかが近代200年しか通用しないような、いい加減な思想で消滅するようなものではない。
さて次回からは共認集団=共同体社会に焦点を当てて見ていきます。

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