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2011年07月20日

シリーズ「日本支配層の思想性と精神性」 第4回 ~大本と軍部とのつながり~

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写真は「蒙古を行く出口王仁三郎(中央)」、ISIS本座さんよりお借りしました。
日本の特権階級(政治家・軍部等)に拡がる「神国思想」を、より補強するかたちで機能していると思われる「日月神示」へと繋がるものに、「大本」があります。今回は、この大本と軍部とのつながりについて、見ていきます。
大本と日月神示の関係性については、シリーズ「日本支配層の思想性と精神性」 第3回 ~日月神示と大本教の関係性~をご参照ください。
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大本には、多数の軍関係者が入信しており、出口王仁三郎も軍には関心が高かったようです。以下、「飯山一郎のLittle HP」より引用します。

●大本教入信の主要軍人
軍関係の重要人物と大本教との関係は、大正二年(一九一三)五月に福中鉄三郎(予備役海軍機関中佐)が大本に入信したのが嚆矢である。二年後の大正四年(一九一五)には福中を介して飯森正芳(同)も入信した。飯森は戦艦「香取」乗組員二五〇人を甲板上に集めて大本教の講話を行なうほどの熱心な信者となったが、一方で飯森は「赤化中佐」とも俗に呼ばれており、トルストイ主義を自ら奉じて無政府主義者や社会主義者の札付きとも平然と親交を結んだ豪放磊落な性格で知られていた。
大正五年(一九一六)十二月には、横須賀海軍機関学校の英語教官だった浅野和三郎とその実兄である浅野正恭(海軍少将)も大本教に加わってくる。やがて浅野和三郎は王仁三郎をも凌ぐ一大勢力を大本教内に有し、実質的に大本教ナンバーワンと目される時期もあり、日本海海戦の名参謀として有名な秋山真之の入信にも荷担している。
秋山真之の入信がきっかけとなって桑島省三大佐(のち中将)や山本英輔大佐(のち大将)ほか、四元賢吉大佐や矢野祐太朗中佐(のち大佐)などの海軍軍人が陸続と大本教へと入信するようになる。
こうした影響力は陸軍にも及んで、大将七年(一九一八)入信の小牧斧助大佐を契機として石井弥四郎(予備役大佐)や秦真次中佐(のち中将)などの入信が相次ぐことになる。
さて王仁三郎の入蒙経綸であるが、王仁三郎に強い影響力を及ぼしたのは日野強(ひの・こわし)陸軍大佐(一八六五~一九二〇)が筆頭とされている。日野は日露教争に先立って軍令により満洲と朝鮮を踏査した経験があるが、日露戦争後の明治三九年(一九〇六)七月、陸軍参謀本部から天山山脈に囲まれたイリ地方を中心に支那新疆省を視察せよとの密命を帯びて出発した。日野の踏査紀行は後に『伊梨紀行』(芙蓉書房刊*1973年、復刻版)という著書として刊行されている。それは新疆地方を中心にカラコルムを経てヒマラヤを越えインドまで達する壮大な探検物語である。
出口王仁三郎入蒙の相談相手として陸軍は、退役後に支那青海で缶詰業を営んでいた日野強を呼びもどし綾部に送りこんだが、海軍は退役大佐で大本信者の矢野祐太朗に大陸現地の奉天で王仁三郎の受容工作を進めさせていた。
矢野は奉天において武器斡旋を業とする三也商会を営みつつ、大陸浪人の岡崎鉄首らと組み、満蒙独立を志していた廬占魁と渡りをつけ張作霖ルートの取り込みに成功するが、その裏には堀川辰吉郎の手配があったことはほとんど知られていない。岡崎鉄首は玄洋社の末永節(すえなが・みさお)が大正十一年(一九二二)に創設した肇国会のメンバーだった。
肇国会は満蒙およびバイカル湖以東シベリア地域を「大高麗国」と名付け中立ワンワールド構想の下に大陸工作を行なっており、その活動は犬養毅や内田良平らの支持を得ていた。
肇国会による大高麗国ロードマップは王仁三郎入蒙経綸の版図と重なり、その思想的背景をなしたと見ることができる。
大正十三年(一九一四)二月一五日、王仁三郎は朝鮮経由で奉天に到着すると北村隆光と萩原敏明に迎えられて、その日の内に岡崎らが手配した廬占魁との第一回会談に臨んでいる。続いて岡崎鉄首、佐々木弥市、大石良、矢野が加わって第二回会談が行なわれた。
村上重良『出口王仁三郎』(新人物往来社、一九七五)によれば、大石は大正九年五月新設された奉天特務機関「貴志機関」(初代機関長・貴志彌次郎少将、貴志はのち張作霖顧問)の有力なメンバーであり、奉天軍第三旅長の軍事顧問兼教官に任じた人物である。宗教学者の村上はまた、「奉天軍閥が盧を迎えた背景には、かねてから盧の利用を考えていた日本陸軍の貴志機関の工作があり、王仁三郎と盧の提携も貴志機関が終始、その推進にあたったことはいうまでもない」とも指摘している。

引用文の中段に出てくる、矢野祐太朗の妻は、後に日月神示の解読に携わっており、大本と日月神示との一連のつながりを感じさせます。
では、なぜ大本(→日月神示)が軍人に信奉されるのか、また、なぜ国家によって弾圧されたのか、その手がかりとなる文章を「クリック20世紀」より引用します。

大本教がいわゆる「世直し」を教義としていたため、昭和神聖会は満州事変以後の軍ファッショ的な国内改造思想と結びつくものがあった。桜会の橋本欣五郎は昭和神聖会に接触し、同会の主催する講演会には現役の軍人が講師として立ち、政府の英米追従の軟弱方針を攻撃し、国体明徴問題が起ると岡田内閣を追及した。また、「満州組」の建川美次少将(当時参本作戦部長)、板垣征四郎大佐、石原莞爾中佐らの革新官僚派も大本教ないし昭和神聖会に同情的だといわれ、同派の青年将校は満州との往復の途次、亀岡に立寄って王仁三郎と面談した。こうして軍部との連絡が頻繁となると、重臣層や政府筋では大本教を危険視するようになり、ついには革新軍人(いわゆる反現状維持派のすべて)と提携して武力により国内改造に進もうとする宗教的右翼団体として弾圧を考えるようになった。大本教から莫大な金が軍人団体方面、右翼方面に流れているという噂も政府を刺戟した。

大本(→日月神示)は、一種の終末論のため、しばしば立て替え、立て直しというような内容が登場します。つまり、大混乱状態からの急激な社会変化を予言し、革命思想とも結びつきやすい特徴を持っています。
ここで、軍というのは、混乱状態にあってこそ、その存在意義が最大に高まる存在であり、そのような軍人の性質が、軍関係者を大本(→日月神示)に入信させる動機になっていたのかもしれません。
同様に、政治家をはじめとする特権階級というのも、社会が混乱してこそ、そのリーダーシップが発揮される職能であり、そのような誇大妄想が大本(→日月神示)へと導いたと考えれば、辻褄が合うように思います。
これが、特権階級および軍関係者が大本に入信した理由であり、同時に国によって弾圧された理由(遠因)となっているのではないでしょうか。
まだ、「神国思想」とは直接繋がりませんが、考えてみれば「神国」というのも、混乱・混沌を前提にしてこそ求心力を持ち得る思想であり、同じようなところかもしれません。
これについても引き続き追究していきたいと思います。

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