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2011年07月12日

■古代中国の再考~「良渚文化」

◆シリーズ「■古代中国の再考」の2回目です。
改めて、目次を見てみましょう。
①「仰韶文化」:古代中国史での新石器時代は,原中国人(01,02)達の生産力が上昇して,母系共同体の「仰韶文化」を黄河の上流に興す。
②「良渚文化」:同時期に長江上流に原中国人の「良渚文化」を興す。
③「紅山文化」:遼河の流域(中国東北)には,新モンゴロイド(O3)が,「紅山文化」を興す
④「龍山文化」:生産力の上昇とともに集団が大きくなり,北から黄河下流に新モンゴロイド(O3)が侵略を繰り返し,「龍山文化」は父系文化に転換。
⑤「夏王朝」:部族間闘争が激しくなり,部族の強大化である国家により統合されるのが新モンゴロイド(O3)モンゴル系は西からの侵略(モンゴロイド:D1,D3)に征服されて「夏王朝」が出来る。
⑥「殷王朝」:再び新モンゴロイド(03)が王朝を取り返す。
~~~~~~~~~~~~~・~~~~~~~~~~~~~~~
前回は①「仰韶文化」を扱いました。
今回は引き続き上記の②「良渚文化」を見ていきたいと思います。尚、各文化には立体的に他の文化との繋がり=因果関係がありますので、できる限り他の文化との関係を考えながら展開していきたいと思います。
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日中台文化交流からお借りしました。
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「良渚文化(りょうしょぶんか)」
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「良渚文化」は中国の何年頃の何処ら辺の文化でしょうか?
・5200年前~3800年前頃(資料のよって多小の前後がありあます)の長江下流域の文化です。
ちなみに良渚文化以前は河姆渡文化(かぼとぶんか7000年前~5400年前)が栄えていました。
立地的に繋がりがあるのは、同じく長江の中流域(中流を飛ばして上流と繋がることは考え難い)及び、黄河の下流域と考えられます。ちなみにその頃長江中流域では屈家嶺文化(くつかりょうぶんか 5500年前~4600年前)、その後の石家河(せっかかぶんか 4500年前~4000年前)が栄えており、黄河下流域では大汶口文化(だいぶんこうぶんか 6300年前~4600年前)、その後の山東龍山文化(4600年前~4000年前)が栄えていたことがわかっています。
「良渚文化」の特徴1―生産様式は?
・農耕が発達(主要経済の源)
→先史(河姆渡文化)稲作農耕から新たな段階に移行している。
・農作物:籼稲(せんとう)、粳稲(こうとう)、ゴマ、ソラマメ、マクワウリ
→良渚文化にて新しく栽培された。
・家畜:豚、犬、水牛
→豚、犬を副葬することもあり、家畜飼育の発達が伺える。
・養蚕は新たな生産項目
→蚕の糸による紡績も習得。
・苧麻(ちょま)栽培
→麻製品製造。
・大量の竹や木製品
→手工業の発達。
・土器製作成熟
→ろくろによる成形が普及、焼成温度も高温化。
長江流域は土質が柔らかく湿っぽいので基本的に水田に適しているので、水田稲作は先史(河姆渡文化)からの継承と考えられますが、この段階で新たな生産様式として農耕が発達しています。一方で採集、漁労の生業における比重はしだいに減少しているようです。
この頃から土器の成形がろくろが使われるように発展していますが、長江中流域では屈家嶺文化(くつかりょうぶんか 5500年前~4600年前)、黄河下流域の大汶口文化(だいぶんこうぶんか 6300年前~4600年前)においても、ろくろが発達しており、どちらがどちらへ影響を与えたのかは分かりませんが、文化的な交わりがあったことが伺えます
「良渚文化」の特徴2―住居、集落様式は?
・大量の高台建築
→宗教に関連する遺構が多数見つかっており、宗教が高度に発展していたことが伺われる。
 ex)莫角山(ばくかくざん)、匯観山(わいかんざん)、反山(はんざん)、瑤山(ようざん)

莫角山(ばくかくざん)
莫角山は良緒文化遺跡群の中心であり、総面積30万平方メートル、高さ約10メートルの土台で、自然の丘を基礎として人工的に土を積み上げ平らにて整えられたものです。上部には人工的に造成した高さ4~5メートルの小さい基台が3基あります。南は300平方メートルの鳥亀山で東と北にそれぞれ約1000平方メートルの大莫角山、小莫角山があります。
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歴史と中国よりお借りしました

匯観山(わいかんざん)
匯観山遺跡では計3万平方メートルの版築基壇がいくつか発見され、基壇には列になって大きな柱穴が並び、数メートルの長さの大方木と日干しレンガなのどの建築遺構がありました。ここでは高官集団による政治、儀式や宗教活動が行われた中心地でした。

遺跡の周りには大小の集落が分布しており、遺跡群は強大な勢力の首長制社会(階層化)のようだと言われています。またそのことから、氏族組織を超越した強力な統治体系が形成されていた(宗教が中心であった)と考えられており、この時代を契機に古代時代へと移行していったと考えられています。
また、首長制社会であったことから、婚姻制は父系制であったと考えらます。前史、河姆渡文化(かぼとぶんか7000年前~5400年前)までは母系制社会であったと考られているので、この時代の何処かで母系社会→父系社会へと転換したものと考えられます。その頃、黄河下流域の大汶口文化(だいぶんこうぶんか 6300年前~4600年前)末期では父系社会であったことが分かっており、また三苗征服伝説(黄河文明と長江文明の勢力争い)からも、(長江下流域において)この時代から母系社会→父系社会への転換が裏付けられます。
今回はこれまで。
次回は遼河の流域の「紅山文化」を見ていきましょう。

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