2020年09月10日
これからの共同体社会はどのように創られていくのか-14
前回、教育は共同体の核心をなし、絶対に手放してはならない集団の課題でであると述べた。そして寺子屋や職人の事例から、まさに現実の外圧に適応する為の本質的な教育(学び)がなされていたことを紹介した。
一方、現代は共同体が解体されて教育が外注されて知識のみ教える学校というものに堕落してしまったともいえる。同一年齢で密室に隔離され、先生という絶対的な存在と対峙しなければならないところでは、まともな感覚、能力が形成されないだろうことは想像に難くない。
今回は、かつての村落共同体においていかに重層的な人間関係が形成されるかを紹介したい。学びとは知識だけではなく、現実の人間関係はどうあるべきか、自分たちが生きている世界をどうとらえるかという根底的なテーゼに応えていくものだろう。
■共同体では親という概念は生みの親だだけではない
財産継承が個人単位になった近代以降とムラの共有財産あるいは先祖伝来という意味での財産継承で概念が異なるように、親子関係も現代のように狭く一面的なものではなかった。子供の人生の各期における課題ごとに親という存在が連なっていく。
・一人の子にたくさんの親
このように、子供は成人するまでが大変であった。それまでに何度も生死の危機を潜り抜けなくてはならなかった。だからこそ、節目節目の通過儀礼が大切にされ、子供の成長を親類や地域の人々で見守る「絆」を深めていったのだ。その象徴が、一人の子供に幾重にも義理の親子関係を結ぶ「仮親」だった。
ここで述べる仮親は、一時的に親の役をする人と言う意味ではなく、むしろ誕生前から始まり、生涯続いたものなのである。どのような仮親がいるか、下記の表でまとめてみた。
《主な仮親》
【誕生前~誕生直後】
帯親・・・妊娠五ヶ月目に締める岩田帯を贈る人
取り上げ親・・・産婆とは別に出産に立会い、臍の緒を切る人
抱き親・・・出産直後に赤子を抱く人
行き会い親・・・赤子を抱いて戸外に出て、最初に出会う人
拾い親・貰い親・・・丈夫に育つよう、形式的に捨てた赤子を一次的に拾って育てる人。後日、実親が譲り受ける
乳付け親・乳親・・・生後2日間、お乳を飲ませてくれた女性
名付け親・・・三日祝い・七夜の祝いなどのときに名前をつける人【生後数年間】
守親・・・4,5歳まで面倒を見た子守役。6,7歳で子守奉公に出される子供も多かった。
帯親・・・3歳ではじめて帯び付きの着物を贈る際に帯を贈る人
帯解き親・・・女子7歳の帯解きに立ち会う親成人~結婚
へこ親・回し親・・・成人式にふんどしを贈る人
前髪親・・・男子が前髪を落とす成人式に立ち会う人
烏帽子親・元服親・具足親・鎧親・お歯黒親・カネ親・筆親・・・武家の元服時に立ち会う人
毛抜親・・・古く女子の成人式で、眉毛を抜く人
杯親・仲人親・・・婚礼時に仲人を務めた人
■子育ては地域ぐるみのみんなの課題であった
現代でも、どれだけの人が子育てに関わり、どれだけ吸収できたかによって子供の能力に影響を与えることは実感できるところ。残念なのは、核家族化して父親ひとり、母親ひとりという存在なのでそれぞれが絶対化して子供と向き合うこととなってしまう。これは子供にとっても親にとってもいびつな関係である。だからというわけでもないが、すでに家族崩壊、子育て放棄など、かなり深刻な事態に陥ってしまったこともうなづける。
江戸時代の子育て~仮親と子育てネットワーク (2)地域ぐるみの子育て
・宮参りで地域に仲間入り
赤子がはじめて地域とかかわりを持つのが「宮参り」であった。氏神をお参りして赤子を氏子にしてもらう儀式で、これを機に村の一員となった。
時期は一定しないが、平均すれば生後約30日で、早ければ生後7
日、遅くても100日にはすませた。また、生後100日目には、赤子に飯を食べさせる真似をする「食初」の儀式を行った。食初前は一人前の人間とみなさなかったため、食初前に死んだ子供は、墓ではなく家の大黒柱の根元に埋めることが多かった。無事に初正月を迎えた子供は、男子には破魔弓、女子には羽子板や手鞠を贈った。三月の節句は今では女子の行事になっているが、本来は男女とともに祝うので、妻の実家や親戚からは雛人形、近所からはこれらを描いた掛軸などが贈られた。三月のひな祭りに代えて「八朔(8月1日)」に雛人形を贈って初節句の祝とした地域もある。
五月の節句も、男女共通の祝事として雛人形や鯉のぼりが贈られた。これらの祝儀には、取り上げ親などの仮親が招待された。また、これらの節句には村の「若者組」が子供の成長を願って凧を贈り、凧揚げをした地域も多い。誕生から満一周年の「初誕生」には誕生餅をつき、氏神におまいりした。「餅負い」といって、子供に祝い餅(力餅・立餅)を背負わせてわざと転ばせたり、子供に丸餅を背負わせて歩けなくなるまで餅の数を増やす地域もあった。
三歳の「帯祝」以後は、帯を締める正式な着物に替え、神事や参詣に参加した。また、頭髪を結い髪にする「髪置」もこの頃行った。さらに、五歳の「袴着」を経て、七歳の祝いを済ませた子供は地域の子供組に加わった。
・地域の教育組織(子供組・若者組・娘組)一定年齢から一定期間加入する「子供組」「若者組」「娘組」などの集団が各地に存在していた。これらはいずれも同世代の青少年が集団生活や共同作業を通して教育・訓練される社会教育組織であった。
たとえば「子供組」は、普段は遊び仲間と変わらないが、年中行事や祭礼の際には特定の役割を果たした。最年長の指揮によって行動し、厳しい上下関係や一定の掟の中で指導・教育され、掟を破れば仲間はずしなどの制裁もあった。
また「若者組」は、構成年齢や組織形態がさまざまだが、おおむね15歳以下の成年式を終えた青年が加入する組織で、加入の際には保証人となった先輩・知人に付き添われて「若者宿」などの集会所へ行き、リーダーや先輩から掟を聞かされたうえで杯をかわし、正式な加入が認められた。新米のうちは雑用や使い走りをさせられ、さらに先輩から徹底したしつけや教育を受けることで、子供心を拭い去って自立した大人へと成長していった。
若者組は、地域における祭礼や芸能・消防・警備・災害救助・性教育・婚礼関係などに深くかかわり、その責任も裁量も大きなものだった。いったん若者組に加入すれば内部事情は一切口出ししない決まりで、周囲の大人たちも口出しすることは無かった。
このように、江戸時代の子供たちは、大人の仲間入りをするまでの間、様々な人々との重曹的な関係や集団の中で育てられたのであり、そこには大勢の人間が深くかかわって一人の子供を育て上げていく、網の目のような教育システムがあったのである。
- posted by KIDA-G at : 2020年09月10日 | コメント (0件)| トラックバック (0)
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