2020年10月13日
「祭り」と「性」の関係
コロナ禍のため今年は各地でお祭りが中止となっているようで、残念です。
そのお祭りについて調べていくと、日本では「性」と密接な繋がりがあることが分かりました。
その性充足が人々の活力の源となり、集団の統合を担っていたようです。
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■日本のお祭りの本来の目的は「神様に感謝する」こと。
「祭り」の語源も「祀る(まつる)」です。
神を慰め、祈願すること。神道または仏教に由来しています。
また、日本人のお祭りに対する思いを理解する上で重要なのが、「ハレ」と「ケ」の概念。
「ハレ」とは「非日常」、「ケ」は「日常」。
祭りは「ハレ」であり、華やかに執り行うことで「ケ」をリセットする意味がある。
そして、「祭り」を調べる中で「性」と密接な繋がりがあることが分かりました。
■祭りのルーツは、歌垣(カガイ)。
・古代日本におけるカガイは、特定の日時(春夏2回)と場所に老若男女が集会し、共同飲食しながら歌を掛け合う呪的信仰に立つ行事。
・究極には集団による子造りの神事。
・互いに求愛歌を掛け合いながら、対になるとされる。
・カガイでは、普通に想いを吐露して相手の気を引くだけでなく、相手を揶揄したり、さまざまな駆け引きや冗談が飛び交った。
・しかも未婚の若い人たちだけでなく、(子供がほしい)人妻や(盛りをのがした)大人らも参加したようすがみえる。
・古代における閉鎖的な集落では、血縁関係が濃くなり勝ちなので、不特定の多数と交わった。他部族との争いをなくす知恵でもあった。
◆日本の各地で古代に行われたカガイは、地名からも類推できます。
※カガイの場所は神に選ばれた聖地であったので、どこでも神を寿(ホ)ぐ言葉がつけられており、同じような地名になる。
・唐津(佐賀)の鏡山(ヒレフリ山)や滋賀の逢坂も、神が宿る聖地であった可能性。
・神が寄るという道股(チマタ)、辻、市(イチ)のあった場所、奈良の海石榴市(ツバイチ)や大阪河内の恵我(エガ)市など。
・カガイは、中国から伝わったという踏歌(アラレハシリ)という行事にも関係しており、枕詞のアラレフルに続く佐賀の杵島(キシマ)や茨城の鹿島(カシマ)も。
・開催場所は、山頂、海浜、川、そして市などの境界性を帯びた地が多い。常陸筑波山、同童子女松原(オトメマツバラ)、肥前杵島岳、摂津歌垣山、大和海石榴市、同軽(カル)市などの例もあり。
・浜辺(ウナイの松原)や水辺にもカガイが行われたらしい場所が。
・山遊びや野遊びという「遊び」というコトバも、カガイに繋がる説あり・・・・
◆童謡にも歌垣の名残が・・・ 隣国中国では現在でも・・・・
・童謡の「カゴメカゴメ」「はないちもんめ」も、歌垣のあり様を伝承されたという説あり。 ※男女の戯れや取り合いを表現したとも
・現在も雲南省のペー族、チンポー族、イ族、貴州省のミャオ族(花山節)、広西チワン族自治区のチワン族などで祭事として盛んに行われている。
■歌垣の変遷
・庶民の間には「歌垣」をとおして、男女の交わりの動きが活発になる。
・水辺や山に食べ物などを持ち寄って騒ぐ小規模な歌垣や村を挙げての大人数の歌垣も催される。性に対して男女の交わりはエネルギーの発散と見えない神への願い。
・庶民は祭りの他に春や秋の忙繁期の合間に豊作祈願を込めて「歌垣」を開催。最後は見知らぬ相手と性交する寄合の一つとなる。
・不妊に悩む女性でも、暗闇に塗(まみ)れて密かに子を授かりに行った現実は否定出来ない。当時は妊娠について例え男性側に不妊の原因が在っても、女性が「産まず女」と責められる時代。
・その救済処置として、「神の子を授かる」と言う暗黙の了解が風習(歌垣という祭りの場)として成立。
・なので、見ず知らずの性交相手は顔も判らぬ暗闇の中で行うのが良しとされ、夫人や娘はどの男性の種でも受け入れた。
・このように庶民における性は実におおらかで開放的だった。人間は誰にでも性欲が有り、性交の快感は神から与えられた恵みであると思っていた。
・更に、食欲や排泄と同じように命を繋ぐ男女の交わりを「ふしだらなもの」ではなく「自然なもの=神から与えられた子孫へつなぐ恵」と捉えていた。
・元々「生み出す」という行為は神のなせる業で、それを願う行為が「お祭り」として神を崇め、豊作祈願や子宝祈願に結びつき、何かあれば皆で集まって神社で楽しんだ。
・男根をご神体にした祭りは現在でも残っていて、当時はもっと盛んに行われていた。
■伝統ある五奇祭
『八雲御抄』は順徳天皇の著書で、鎌倉時代の1200年頃に成立したものだが、そこに「天下の五奇祭」として挙げられた祭りは、いずれも平安時代に生まれた新しい性の奇祭であった。
五奇祭とは「江州筑摩社の鍋被り祭り、越中鵜坂社の尻叩き祭り、常陸鹿島神宮の常陸帯、京都・大原の江文社の雑魚寝、そして奥州の錦木」の5つを指す。
☆江州筑摩社の鍋被り祭り( 現滋賀縣米原市 )
桓武天皇の時代(8世紀)以来1200年の伝統がある。神前に供物とともに近江鍋と呼ばれる土鍋を贖物したことから、このような祭が生まれたと考えられている。
鍋冠りの女性はそれまでに経験した男の数だけの鍋を冠るという不文律があり、朝廷の役所が置かれていた近江で、たくさんの男性とセックスするのは女性の名誉という認識。
☆越中鵜坂社の尻叩き祭り( 現富山市)
平安時代から江戸時代までは、楉祭という特殊神事が行われていた。別名を「尻打祭」といい、貞操を戒めるために祭りの夜に榊で女性の尻を打つ祭であった。
多くの男性と関係を持つことは、女性にとっての誇りだったようです。また、正月に七草粥を炊いた薪で女性の尻を打つと健康な子が生まれるという公家の遊びが伝わったものである。「日本五大奇祭」の一つとして日本全国にその名が知られ、松尾芭蕉や宝井其角もこの神事を詠んでいる。
☆常陸鹿島神宮の常陸帯祭り(現鹿島神宮)
常陸国鹿島神宮の祭礼で古く行われていた結婚を占う神事。意中の人の名を帯に書いて神前に供え、神官がそれを結び合わせて占ったとするほか諸説ある期日も古くは正月十一日、江戸時代では十四日などさまざま。
☆京都・大原の江文社の雑魚寝( 現京都大原)
かつて江文神社には節分の夜に雑魚寝する習慣があって大原雑魚寝と呼ばれていた。
むかし井出(かつて江文神社のあたりの地名を井出といった)の大淵に大蛇があらわれて人を食べるので、村中の男女は節分の日に江文神社の拝殿に雑魚寝したといわれている。
そして、この夜にどのような情事があっても見逃したということだったそう。関係した男の数だけ女の足首に紐を結びつける風習が有った。
☆奥州の錦木( 現岩手県奥州市)
昔の奥州の風習で、男が女に逢おうとする場合に、五色に彩った30㎝ばかりの木片を女の家の門に立てて、女に応ずる 心があればそれを取り入れ、取り入れなければ男がさらに加え立てて千束を限りとする と云う。
■まとめ
そもそも日本では、男と女の関係は、自然や社会としっかり繋がっており、神聖なものとして人には認識されていた。
祭りや、踊りを通し「ハレ」の舞台の中で、男女の関係は、光り輝いてきたし、これは、ある意味先人たちの知恵ともいえる。
そして、お互いに充足した生き方=「目合ひ」を集団の中で持続可能性のある行為として営んできたのである。
いまだに日本にはその祭り(DNA)が残存していることからも明らかでしょう・・・・
そのたたづまいは、近代観念によってつくられた「恋愛」をベースに密室の中で培われる男女関係とは一線を画す。
今のままの男と女の関係は、自然の摂理に背を向け、このままでは、滅びていく。
これからの男と女の関係を、永遠に(持続可能な)光り輝く存在として、どうしていくか?
まさに、我々人類が生き延びていく岐路に、今、立っていると言えるのではないか?。
男は、男らしく。女は女らしく、自然体で生きていける世界。
これからの男女のあり様の照準はそこにある。
- posted by KIDA-G at : 2020年10月13日 | コメント (0件)| トラックバック (0)
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