2022年05月14日
同類の存在が居なければ、欠乏も活力も充足も「無」になる
前回の記事では、
私たち人類は、同類なしでは生きられない。逆にいえば同類の存在こそが、最大の活力源であり充足源となっていることを、色んな事例を通して見てきました。他の哺乳類には見られない、人類固有の、かつ最大の特性です。
今回は、
何でここまで人類は同類の存在が不可欠になっているのか
を、記事にしたいと思います。
まず、その前に少しおさらいですが、何をもって人類というのが相応しいでしょうか?
人類と類人猿を分かつものは何でしょうか?
よく聞かれる説は二足歩行できるのが人類という説ですね。でも二足歩行は類人猿、サル ”も” 可能です。テナガザルなんて、二足で綱渡りできるくらい、人類よりも上手なんですよ。二足歩行は人類の専売特許ではなく、二足歩行をもって人類とするのは不十分と考えます。(故に、猿人は人類ではなく類人猿である可能性が高いと思われます。)
サルのサルたる所以は足で枝を掴め、樹上に棲めること。しかし人類は足で枝を掴むことができない。つまり人類は、足の指がサル以前の哺乳類に先祖返りして、樹上に棲めなくなった≒地上に降りざるを得なかったのが出発点と考えます。
過去の記事:人類のサルとの違いは、木に登れなくなったこと
ちなみに、生まれた赤ん坊の指が先祖返りするケースは、現在でも見られます。例えば、指が多い多指症は1000人に1人の確立で発生するくらい、決して珍しいことではありません。
多指症とは?はこちらから
人類の直接的祖先は、特長の類似性からオランウータンとの共通祖先と当ブログでは考えていますが、生まれてきた赤ちゃんの足の指が先祖返りしたところから始まったのではないかと推察しています。
足の指が先祖返りした赤ん坊は、大人になるまでは母親にしがみつく事で樹上生活できても、大人になれば親や仲間と同じように樹上で生活することはできません。現在のオランウータンは樹上30mの樹冠で一日の殆どを生活していますが、足の指が先祖帰りしてしまえば、到底樹上生活は適いませんよね。
かといって地上にはトラ等の外敵も多いので、まず身を守るため安全な空間に隠れ住むしかない状況に追い込まれたと思われます。事実、原人~旧人~新人と古代人類の化石は洞窟から多く発見されており、洞窟が初期人類の棲家だったのは間違いないでしょう。
過去の記事:外敵圧力から逃れ、洞窟に隠れ棲んだ原始人類
そんな初期人類に同化してみると、どうでしょう?
同類の仲間は樹上にいる。
しかし自分はその同類と違う洞窟にいる。
サル~類人猿は同類がひしめき合っているのが常態のなか、同類と断絶した世界に陥ったのは史上初めてのことでしょう。
というのも、サル、類人猿は、外敵が殆どいない樹上世界という特殊環境のなかで、他の陸上哺乳類とは違う進化を遂げてきた動物です。樹上には同類のサルしかいないが故に、とりわけ真猿類以降は同類との縄張り争いが主になり、仲間とのスキンシップや役割、評価、序列などを共認することで集団を形成しています。このような同類がいてこそ、初めて機能するサル・類人猿の共認機能は、同類と断絶した世界に陥ったことによって全く働かなくなっていったと推察されます。
つまり、サル、類人猿にとって同類の存在を失うというのは、欠乏も活力も充足もその出所を失い、その結果、同類の存在を前提に働いていた心身の諸機能は衰弱し、果てしなく「無」の状態に陥っていったと思われます。
初期人類は、同類がおらず(=同類欠損)、欠乏も活力も充足も出てこない「無」の状態となり、この「無」を起点にして、人類固有の特性や意識構造が形成されていったのではないでしょうか。
次回はこの「無」から人類はどのように進化していったか、を記事にしたいと思います。
- posted by kida at : 2022年05月14日 | コメント (0件)| トラックバック (0)
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