2007年06月19日
日本婚姻史7 前婿取婚~飛鳥奈良平安(初)~
日本婚姻史6 妻問婚の番外編の続き、いよいよ婿取りの前段階です。
一 前婿取婚というもの
時代は大化改新(646年)が、部族連合社会を崩壊させ、はじめて都市ができて田舎と対立、またはじめて律令という成文法が布かれ、行政区画がなり官僚制も始まった。財産制、特に土地所有制も共有から私占(私有)に移った。
しかし、大化改新は政治革命で社会革命ではなかったため、共同体も崩壊されつくされずに半壊れとなっただけで、このような共同体の妻屋において妻問婚も継続していた。前婿取婚は、貴族も庶民も、妻問いから婿取りへの過程にあって、通い(別居)と住み(同居)が相半ばしていた状態。
妻問婚の場はヤカラと称する共同体であり、オヤ(祖-族長)が婚主であり、親族組織はヨコのハラカラ中心の類別的組織で、タテの直系親的な両親組織にはなっていなかった。父という存在はなく、兄姉の上は長老層と、それらを包括する氏長(族長)があるのみであった。
ところが、大化改新はこうした族制に実質的な打撃を与え、父は妻問いの外来者ではあったが父系観念は熟していた。「男女の法」によって、生まれた子が母親の妻屋にいても、氏姓だけは父のそれにつくことを可能とした。ここに共同体の第一条件としての同一氏称(同一部名)を全員に呼称させるいわゆる「氏族」的機能を失い、ついで全員同居の機能をも捨てて半壊れとなり、戸は異氏姓者雑居の観を呈するに至った。
二 前婿取婚の方式
前代と同様、当人同士の間で求婚がなされ、婚姻もなされた。ただこの期になると、女の側には母が背後に出現して監視し、あるいは黙認し、あるいは事後的に承認を与えて男を婿として通わせ、または住ませたりもする権利をもつようになる。
トコロアラハシ=三日餅
昔は性の結合だけがあって婚礼というものがなかった。「嫁ぐ」も単なる性交の意味であった。最初の婚礼は、トコロハラハシ(現場あらわし)として発生した。男が女のところへ通ってきて忍び寝ている現場を女家の人たちがおさえてあらわし、女家の餅を男に食わせて、男を女家の一員とするマジナヒの儀式である。
後には忍び通いの3日目ぐらいにするようになったので、「三日餅」(ミカノモチヒ)ともいわれた。トコロアラハシがすむと、婿は忍び通いをやめ、公然と通ったり、住みついたりする。婿に餅を食わせるのは、神話でいうヘグヒ(おなじ鍋の食事)であって、原始的信仰から出た婿捕り法である。
三日餅のムコトリ儀式は、奈良ごろに農民の間から生まれ、それが平安貴族によって豪華な虚飾的なものとなったろうことが考えられる。三日餅の行事後は、同じ通い婚でも、かつては客人であり、外来者であった婿が、がらりと意味が変わって同族に擬制された。
三 前婿取婚の問題
律令法が父系を貫徹した中国家族法を母法としたのに対して、実態は未熟な過渡的父系制の段階にあったので、両者は衝突した。家族の実態はいぜん母系型・母系婚(婿取式)で、子は母族の扶育に委ねられていた。だから父系の近親観念が発達せず、父系の近親婚(同父の兄妹婚)が容易に行われた。
例外婚スエ
スエの対象となる女は、この時期以後増大する貧女や孤女、当の男より低い身分の女、後見者のない皇女等で、その時々の都合で、自家に連れ込んで同居したり、新宅を建ててスエた。
しかし、後代の「かこい」とは違う。「かこい」では、性の取り引きが主体で、その期間一定の賃金が支給されるが、スエは恋人の貧しさや孤独に同情して、後見者となってスエの名のとおり住居の便宜を与えることが原則で、普通には女の生計は女の責任なのである。スエには男の愛や好意がみられるので、一般の女も女の親も、一種の憧れをもつ傾向にあった。
スエ説話は、前代ではほとんど見られず、平安初・中期から顕著となった。つまり共同体の崩壊につれ、男女の地位の平衡が失われかけたこと、そのため貧孤女の存在が目立つようになったことが背景にある。
女の財産
婚姻生活が共同体で保障されていた妻問婚の時代までは、夫婦は純粋に愛情のみの関係でありえたが、氏族が崩壊したこの時期では、夫婦の結合は生活組織へとつくりかえられ、それをもって娘の婿取婚を支えようとしてくる。共同体保障から両親保障への推移である。
しかしその進度はのろく、前代のままの通い婚関係の両親もあり、また夜離れ床去り式の不安定な対偶婚段階でもあるので、父には頼れず、母の一族に依存することが多かった。こういう段階では、女性の自活力(特に財産権)はかなり重要な意味をもっていた。
この期の財産は、奴婢・田宅などが主要なものだった。
養老7年に墾田三世一身法、天平15年に墾田永世私有法が布かれると、女たちも墾田開発者や集積者となったらしい。宅地についても、「家は女のもの」という伝統的観念があって、女性所有や女性相続が多い。「三界に家なし」というのは室町以後のことでしかない。だから離婚の場合は男が立ち去るのが多かった。
読んでもらってありがとう(^_^) by岡
次回は、純婿取婚です。お楽しみに
- posted by okatti at : 2007年06月19日 | コメント (4件)| トラックバック (0)
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comments
日常的には母系なのに、系譜観念的には父系って??頭ぐるぐるですが、当時の人たちにとっては、そんなに大変なことでもなかったんでしょうか?
男も女も根無し草かどうかっていうのが、婚姻制には、すごく関わってくる気がします。(この時代には、根無し草なんて殆どいないんですよね☆)
当時と比較すると混乱するかも知れませんが、現代でも、旦那は仕事ばかりで、家庭は実質的に母子家庭というケースは見られますね。しかも夫方より妻方の親姉妹との親交のほうが盛んですね。それでも姓は夫の姓に変わる。
当時は母子家庭といっても、両親や姉妹家族もいて、母親は仕事も財産も自前でもっているのでもっと内実があったでしょうが、子供は夫の姓を名乗る。この系譜観念だけが父系になるということで、まぁしょうがないという感覚でしょうか。
ただこの父系観念が、実質の母系家族を突き崩していくことになりますが…。
根無し草も、平安時代になると登場してきます。つまり共同体が崩壊し家族単位に細分するにつれて出てきます。
『前婿取婚~飛鳥奈良平安(初)~』
http://www.jinruisi.net/blog/2007/06/000192.html
で紹介した“スエ”はその走りですね。
その後も都では増えてくると思いますが、次の婚姻制(父系家父長婚)を推進したのは、彼らではなく武士階級で、やはり次の社会をリードする新興勢力だったということでしょうか。
根無し草が主流になるのは、近代市場社会以降と思われます。
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