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2008年05月17日

「わたしの死」

「裁判員制度」をめぐり、本質問題には蓋をしたままの「死刑論争」が続いています。
ここでは、あらためて、「死」というものを考えてみたいと思います。
死の意味領域(内堀基光氏)を参照させて頂きます。
《引用開始、一部編集》
>「わたしの死」というのは普通の人間の長い人類史の過程においては問題にならなかったことでしょう。
これを問題にするのはやはり社会的権力などの、生きている中における差異の肥大化だろうと思います。
それは階級社会の発生といってもいいし権力の発生といってもいい。
個人による他の個体への支配といってもいい。
その中で「わたしの死」というものが出てくるのであろう。
歴史的な諸宗教は基本的には「わたしの死」に関わってくる。
キリスト教にしても仏教にしても、ちょっと違いますがイスラムも基本的にはそうですね。
ようするに「おまえが死んだらどうなるか」という問いかけ、つまり「わたしの死」というものを考えさせるのが、歴史的な宗教の力である。
悪い言い方をすれば、これは一種の詐術であって、その中で「死」というのは自分の死であると人々は思い込まされる。
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>無階級社会つまり平衡性の高い社会においては問題は自分の死などではなく、愛着対象の死であると思います。
ボルネオのイバンの人々を見ていてもそんなに自分の死というものを問題にしない。
結構楽に「死」のことを話している。
「もうじき私は死ぬんだ」「年を取ったからもうじきあの世へいくんだ」とか平気でいっています。
イバンの普通に語るあの世はまったくこの世の延長です。
もっともこの世よりちょっとはいい。
すばらしい極楽じゃなくて、例えば農耕しなくても働かなくても食えるなんてほどすばらしくはなく、働くんだけどいつも豊作だとか、そのくらいのモデストな理想境ですが、基本的にはこの世と同じ。
ですからあの世でも適当な時間が経てばもう一度死ぬ。
そういうものとしての他界を普通に語っているのを聞いていると、こういう平坦な他界観というのが、おそらく人類史のかなり長い間の一般的なイメージだったのだろうと思います。おそらく、大変恐い地獄だとか大変良い天国だとか極楽というのは、人類史のなかではごくごく最近の、たかだか一万年もいかないような――歴史宗教の発生ということでいえばせいぜい3000年とか――新しいイメージであり、死の問題が一種の終末論として語られるような状態になってからのものでしょう。
>【わたしの死へ】
死の恐怖・死の不安というのは普通は「他者の死」については言われない。
「わたしの死」に限られることである。
それはなぜか。
ことによると死の問題ではないかもしれない。
まだ分からないところがあるのですけれど、それは基本的には時間の問題だろうと思います。
「時間が私の外にあって永遠に続く」と人間が考えるようになる。
そして、そのわたしのいないこの世界の未来というのはいろいろな可能性のある、諸可能性を秘めた世界であって、それについてはわたしの想像が及ばないということのもつ恐ろしさなのです。
これは簡単に言えば自己肥大の結果です。
わたしの死もひとつの喪失ではあるけれど、他者の死の場合は生きている生者の共同体がある個体を失う、喪失することなのに対して、わたしの死の場合は、世界がわたしを失うというふうには思われないということです。
わたしが死んだら誰それは悲しむであろうという思いは、「他者の死」の鏡像なのです。
この場合は「わたし」が死んだらとはいっても、主観の転換があるだけでなお「他者の死」の拡張です。
それに対して、ほんとの死による不安の問題点はわたしが世界を失うこと――本来そのようなことはないのに――で、それが根元にあります。
どうしてそのようなふうに思えるかといいますと、そこに「わたしが世界を持っている」という幻想があるからです。
持っていなければ失いようがない。
われわれはそれぞれに何らかの世界ないし世界の断片を所有してると思っている。
それがどんどん肥大していけば……。
この世を所有したほどの帝王たちならば、おそらくその喪失の恐怖というものは果てしなく大きいものだったろうと思う。
要するに、わたしがこの世を持ってるのにそれを無くしてしまうのが「わたしの死」だということです。
ですから、これは死の問題よりも、おそらく世界の所有の問題、世界を無くすことの問題であり、紀元前何千年くらいから現れる様々な帝王たちの自分の死への不安、あるいは死なないことへの執着がその原型だと思います。
始皇帝にしてもピラミッドを作らせた王たちにしても。
現代人のかなり多くがそういうものの縮小版になってしまっている。
それはまたなぜなのか。

>今、死を問題にしてる様々な文化講座などには、自分の死を考えている人たちが来る。
そのような個々の人間が、たとえ小さいものであれ、なぜ世界を所有しているという幻想をもつようになったのか?
いろいろな意味での個人主義……「わたし」というものの肥大化とはいわなくても、「わたし」というものが主語になるあり方、この世の主語としての「わたし」というものを、平等にかなり多くの人が共有するようになっている、ということでしょう。
《引用ここまで》
個人主義→共同体規範の崩壊は、「自我」を極限にまで肥大化させてきました。
抑止力を失った「自我」は、暴走し、あらゆる犯罪を引き起こすだけではなく、「生命」さえも、自分のもの→自分の好きに出来るものという歪んだ観念を形成し、いとも簡単に自らの生命をたつ人が続出しています。
「死刑賛成」「死刑反対」を議論するよりも、「自我肥大」を生み出した「個人主義」という観念の欺瞞性をあばき、新しい時代の規範をどう根付かせていくのかという追求が必要ではないでしょうか?

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