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2010年10月28日

2010年10月28日

共同体の原基構造-6~「自分らしさ」という倒錯観念

前投稿では、極限的な状況を、強く共認に収束することで生きのびてきた人類の『死生観』を探求しました。そこで浮かび上がってきたのが、いったいいつから人々は「死」を恐れ、不安に苛まれるようになったのか?という問題意識です。今回は、まず、そこに焦点をあててみたいと思います。 
捏造された恐怖観念=「わたしの死」
●死の意味領域:文化,変化,進化  【内堀基光(東京外国語大学AA研)】引用

ボルネオのイバンの人々を見ていてもそんなに自分の死というものを問題にしない。結構楽に「死」のことを話している。「もうじき私は死ぬんだ」「年を取ったからもうじきあの世へいくんだ」とか平気でいっています。イバンの普通に語るあの世はまったくこの世の延長です。もっともこの世よりちょっとはいい。すばらしい極楽じゃなくて、例えば農耕しなくても働かなくても食えるなんてほどすばらしくはなく、働くんだけどいつも豊作だとか、そのくらいのモデストな理想境ですが、基本的にはこの世と同じ。ですからあの世でも適当な時間が経てばもう一度死ぬ。そういうものとしての他界を普通に語っているのを聞いていると、こういう平坦な他界観というのが、おそらく人類史のかなり長い間の一般的なイメージだったのだろうと思います。おそらく、大変恐い地獄だとか大変良い天国だとか極楽というのは、人類史のなかではごくごく最近の、たかだか一万年もいかないような――歴史宗教の発生ということでいえばせいぜい3000年とか――新しいイメージであり、死の問題が一種の終末論として語られるような状態になってからのものでしょう。

歴史的な諸宗教は基本的には「わたしの死」に関わってくる。キリスト教にしても仏教にしても、ちょっと違いますがイスラムも基本的にはそうですね。ようするに「おまえが死んだらどうなるか」という問いかけ、つまり「わたしの死」というものを考えさせるのが、歴史的な宗教の力である。悪い言い方をすれば、これは一種の詐術であって、その中で「死」というのは自分の死であると人々は思い込まされる。

死はある意味では人間の生活にとって健全な要素である。死の恐怖・死の不安というのは普通は「他者の死」については言われない。「わたしの死」に限られることである。それはなぜか。
これは簡単に言えば自己肥大の結果です。わたしの死もひとつの喪失ではあるけれど、他者の死の場合は生きている生者の共同体がある個体を失う、喪失することなのに対して、わたしの死の場合は、世界がわたしを失うというふうには思われないということです。

やはりいろいろな意味での個人主義……「わたし」というものの肥大化とはいわなくても、「わたし」というものが主語になるあり方、この世の主語としての「わたし」というものを、平等にかなり多くの人が共有するようになっている、ということでしょう。

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人類500万年の大半は、常に「死」と隣り合わせであり、当たり前のものとして意識されていたようです。
当時の人々は、生存の「全て」をみなに委ねていたからこそ、肯定観が基盤となり、「死」すらも、否定視する必要などなかったのだと思います。

その肯定観を「わたしの死」へと倒錯させ、恐怖と不安に塗り替えてしまったのは、宗教と個人主義に他なりません。現代人につきまとう「虚しさ」と「孤独感」を引き起こす原因も、根は同根ではないでしょうか?
後半は、ここにアプローチします。
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