2007年08月16日
日本婚姻史11 嫁取婚~室町安土桃山江戸~
日本婚姻10 擬制婿取婚~鎌倉南北~のつづき。ついに嫁取婚=家父長婚に転換します。
嫁取婚のおこり
嫁取婚の遠い前兆は、母系氏族制の胎内における父系観念の発生にあった。そして事実上の発芽は長い婿取婚の内部でいろんな外貌をとって現れた。日本婚姻史7 前婿取婚~飛鳥奈良平安(初)~のスエ婚は形の面で、日本婚姻史8 純婿取婚~平安(中)~以降の略奪、召上、進上婚は形質両面で特筆すべきで、婿取婚の終滅期の擬制婚は形の面ではほとんど嫁取婚であった。
こうしてみてくると、嫁取婚を担ったのは、武家層の略奪、召上、進上婚であり、スエ婚や擬制婚は、形だけ順応し、原理的にはそれに抵抗していた保守的婚姻形態だったといえよう。
略奪婚にみられる女性性具観、家内奴隷観こそ、嫁取婚における女性観の先決的性格をなすものであった。だから嫁取段階に入ると、一方では女性は性器として大量に性商によって売買され、その商行為を国家が公認して公娼制を発現させ、他方では「嫁をとろうか牛を買おうか」と家内奴隷の角度から評価される事態へと進むのである。部内の美女を徴発する召上婚、弱隣からの進上婚等も、その性格は略奪婚と同じであった。
家父長制の確立につれ、私有財産(跡式)の相続が必至となり、女性は相続者を生む生殖器の面でも必要とされ、「子なきは去る」という律令語がはじめて生きてきた。こうして女性を鎖でつなぐ嫁取婚の誕生となった。
嫁取婚の時期と本質
嫁取婚の時期は、大まかに見れば室町以後(1378年)から昭和憲法のできた昭和22年(1947年)ごろまで。初頭および末期を、南北朝および明治維新までさかのぼらせてその期間を過渡期とすることもできよう。
嫁取婚の本質を一語で言えば「家父長婚」で、「家父長が嫁をとる」のであって、当事者間の合意は私通とされ、不義とされ、大逆罪に準ぜられる。
家父長婚の目的は、「家」として象徴化されている私有財産の純父系的相続にある。
氏産、家領の枠内で男女個々人が分割私占する私産制が崩壊し、家産、つまり家父長掌握の財産制の時代に入ると、妻子は無産者、被扶養者となり、家父長の財産のみに依存することになる。家父長はその財産を、自己の延長としての嗣子につがせる。ここに純父系的相続の手段として、歴代相承けて、純父系的な「家」が成立するのである。
嫁取婚は、主としてこの純父系的相続の手段として要請されたものに他ならない。「われらは嗣子を得んがために結婚する」といったギリシヤ哲人、ローマ法家の思想や、「子なきは去る」といった中国の儒家の言葉にも、それは如実にあらわれている。
女はいわば所有された生殖器であって、子の親ですらない。室町以後の「腹は借り物」という言葉は、母は親でなく、父のみが親だという意味である。
女は白奴-性奴隷であり、家奴-家内または家事奴隷であった。男女の分業は、男は外に出て社会のために働くもの、女は内にいて家のために女工(紡織・裁縫)をなすものとされた。これは古代ギリシヤ、ローマ、インド、中国等すべてに共通であった。
この段階から妻は夫をダンナ様と召し使いの語で呼ぶようになった。それまではわが背子といった。女は家父長の所有物であり、妻側の家父長は「呉れ手」、夫側の家父長を「貰い手」といった。婚期を逸した娘は「売れのこり」で商品でもあった。
家父長制の成立
家父長制とは、氏族員である個々の男子が、私有財産(妻子、奴隷、土地等)を確保したときに、必然に氏族制の要請する共有関係を拒絶して、個々的に独立して営む私的生産組織(ないし経営組織)をいう。
従って、それは氏族制下に発芽し、成長とともに氏族制を変質させ、最後に完全に氏族制を廃棄して、代わって家族制として表面化してくる過程をもっている。また反面、女性の無産者化、家内奴隷化の過程と照応する。
女性の性が一個の物品となり、ひろく略奪、召上、進上等の対象となりはじめたのは、平安中期の荘園制の土地争奪の渦中においてであったが、そうした強奪婚がようやく嫁取婚を一般化し、家父長制を確立することになるのは、家領制、惣領的土地共有形態が崩壊し、その中から「惣」-郷村制-が顕現してくる過程においてであった。
この過程は南北朝ごろから表面化し、織豊時代ごろまでに一応終わるとみてよいが、この2、3百年間を母胎として、家父長制は全姿をあらわし、封建権力と複合して幕末におよぶのである。
追い出し離婚
律令制では離婚のことを「棄妻」といった。かつては「夜離れ」「床去り」といい無宣告の自然解消だったが、室町以後の嫁取段階では、宣告して追放せねばならない。追放された女は「三界に家なし」で、再婚する場合、前主人に所有権があってはならないから、追放宣告状が必要だった。「暇の状」や「三下り半」は庶民のもので、江戸期の武士は公儀に届けて許可を受ける形式だった。
女からの離婚権はなく、ただ一つ、縁切り寺に駆け込み、そこで尼になって三年すると、寺法によって離婚が叶うという規定があった。母子関係も前代までは血縁絶対、母子不離であったが、この期では自動的に子からも離縁されることになった。
姦通大逆罪
この期から夫婦関係は主人と奴隷、所有者と被所有者の関係になったので、自己の所有物を侵害されて見逃すのは相手を恐れての卑怯な行為になる。姦通者が男なら所有権の侵害者、女なら所有主への大逆犯人となって、夫や夫方の家父長が私刑を加えるのを社会が許すようになった。私刑は、鎌倉ごろまでは「武士らしくない未練さ」とされたのが、これからは「生かしておくのは男の恥」となったのである。
蓄妾制
後宮制は東方の家父長制社会と不離なもので、女性や奴隷が財物に転化されて、大酋長の身辺に蓄積される俗であった。わが国でもその傾向はあったが、原始婚に疎外され未熟であった。例えば大化後の後宮制も、すぐに女御の制にかわり、女御の身柄は氏族を離れず、里第に常居し、出勤制であった。
中国式の後宮制は、江戸の大奥に見られ、普通人もこの期に蓄妾制に到達した。
メカケ、テカケ、ツカヒヲンナ等の語は、この期に武家層の間で発明された。蓄妾の数量の多少がただちに身分の高下を示す時代がきたのである。
読んでもらってありがとう(^_^)。応援よろしく♪ by岡
次回は、現代につながる明治以降の寄合婚です。お楽しみに
- posted by okatti at : 2007年08月16日 | コメント (4件)| トラックバック (0)
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comments
>男娼は、男を相手にする男もいて、今のアメリカ以上にゲイ文化が市民権を得ていたようです。<
市民権までは言い過ぎではなでしょうか?歴史的事実を詳細に見ていく必要がありますが、生物として見ても、あり得ない関係です。要は必然性がないということです。である以上、精神的な部分を満たすためにある行為のように考えますが...
大らかの意味が違うように感じます。
レスありがとうございます>河内のおやじさん
日本のゲイ文化の歴史の追及となると、おたくぽい世界となっていくような気がします。(笑) が、
日本では、ゲイ文化の同性愛を「男色」「衆道」と呼んでいたようです。
井原西鶴が、著書「男色大鑑」の中で、日本は男色天国であると、書いているようです。
参考にどうぞ
「ALL ABOUT」
http://allabout.co.jp/relationship/homosexual/closeup/CU20040530A/
江戸時代の西鶴が『大鑑』〔男色大鑑〕に「そのころまでは昼の芸して、夜のつとめと
いう事もなく、招けばたよりて酒事にて暮らし、執心かくれば世間むきの
若者の如く云々。また一年(ひととせ)妙心寺開山国師350年忌の時、
諸国諸山の福僧京着して御法事の後、色河原を見物し、万事をやめて買い
出すほどに、前髪ありて目鼻さへつけば一日も隙なく、是より昼夜に売り
これから解釈できることは—全国から来た僧侶が、350年忌(1680年
・元禄のごろ)法事の後、色河原へ行き、買いあさった。元服する前の子なら
、目鼻があれば誰でも暇がないほど売れた—。
こういう男色を「陰間、陰子、かげろう、すばり(=搾り=すぼまって小さい
こと=肛門)、あかすばり(=若い衆)」などと言った。
この男色は、特に永禄(1558年ごろ)から元禄(1700年ごろ)までが
盛んだったらしい。
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