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2007年08月01日

日本婚姻史10 擬制婿取婚~鎌倉南北~

12000680_TakamuraItue.jpg日本婚姻史9 経営所婿取婚~平安(末)~のつづき。とうとう群婚にはじまる全原始婚の最終段階、擬制婿入婚を迎えました。写真は『日本婚姻史』の著者:高群逸枝。熊本の文学者たちより。
擬制婿取婚というもの
承久の乱(1221)ごろから南北朝(1336)ごろまでにみられる擬制婿取婚は、文字どおり婿取婚を擬制するもので、内実は夫家の本第に妻を迎え入れるもの。夫家の本第を妻の領と観念し、従って妻と不同火族である夫方の一族の退居を要求し、しかる後に夫を婿とる方式の婚礼である。

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大別して二つの型がある。
A型は、婚姻開始に際して、男の親が夫方の一族を率いて他へ避居し、その後へ妻が移徒して、婿取婚礼を挙行する。
B型は、婿取婚礼は妻方で行い、相当期間待機して夫の親(および夫方一族)が避居し、または死去した後、そのあとに移徒するもの。
いずれも妻が夫の本第に入るのは、単なる「移徒」であり転居であって、他族中に入家するものではないと観念される。「家は女のもの」という太古以来の頑固な意識、婚姻は男が女のところへ来る形式以外にないという母系制以来の伝統が、内実は女が男側へ迎え入れられる段階におよんでもなお生きており、最後の抵抗と権威を示したのである。
擬制婿取婚の居住法
居住方式は二つの型がある。いかなる条件下にあっても、父系は形成されてはならない、従って父系は常にばらばらな単婚形態に分断されてあるべきだとする、女系型家族の原理がここでも必死に抵抗している。
甲型=長子相続型は、本第を長子夫婦に与えるために、次男以下をつれて隠居(正しくは避居、退居)し、その隠居屋を次男夫婦に与え、三男をつれて散居に隠居し、こうして各自が単婚世帯に分断される。これは父系の同居・同火を禁忌する伝統からである。
乙型=末子相続型は、長子が婚姻すれば分家させ、その次は次男、そして三男と順に外に出し、結局末子が残って本第を相続するもの。
ヲトリの売笑化
原始時代には売笑制はなかった。族外婚段階の道祖神(クナドの神)の大前でのヲトリ(雄捕り)、他氏族の男性たちを尻振り踊りで誘惑してそのタネをもらい、またそのことで彼我交通の契機をつくったヲトリ的活動のみがあった。
ヲトリ的活動は、その後神前に胸乳と下腹部を露出して舞踊するアメノウズメ系の神楽踊りと、氏の長者家で旅行者を接待する氏女たちとの二種類に分化した。
前者は奈良ごろには遊行女婦、平安ごろにはアソビメ、その末期にはクグツ白拍子等、海陸両様の芸能女性兼私娼となったが、道祖神を百大夫神と称して祖神としていた。
後者は、大局的にはタネもらいの伝統を引いたいわゆる「長者家のむことり」となったが、ゆがめられて単に接待の意味だけの侍寝女ともなって並存した。
鎌倉期には、芸能遊女と長者接待女とを統一した長者遊女制が登場した。土地の長者が宿駅の長者を兼ね、その娘や姉妹が貴種や武将を接待したのが、いわゆる長者遊女制の由来であろう。こうして各駅に宿舎を兼ねての遊女稼業が形成され、売笑制となって堕落していった
メトリの発生
ヲトリが尻振り踊りで女が男を誘惑して捕らえることであるのに対し、メトリは暴力で男が女を捕らえること。民俗の「かつぎ」の類がこれ。
メトリ(女捕り)は、戦利品的略奪と、早くからの相思や片恋からの盗み婚とが合併したものであろう。婚姻史的には、原始の忍び妻問婚から業平式の盗み婚や時平式の奪い婚となり、これらが略奪婚とまじって「女捕り」の俗となった。
女捕りは主に道路上で行われ、これを「辻とり」ともいった。社会の階層分化から無妻の境遇に追いやられつつあった下層民だけでなく、御家人、郎従、法師の別なく広く行われた。
後には罰則も間に合わず、「独り歩きの女はとられてもしかたがない」とされたようだ。こうなると、辻とりを商売にして、とった女を売りとばす「人商」という一味が出現する。これを「かどわかし」ともいった。
女を物品視する略奪婚という本質を潜在させ、表面にやや偽装をほどこして正俗化したのが、夫による「妻取り(メトリ)」である。
女の財産権の消滅
氏族制では女も男と同様、財産共有(分割私占)の権利をもっており、大化後から鎌倉・南北朝ごろまでそうだった。(女が財産権を失うのは、世界史的にみても、家父長制による財産私有の確立と同時である。)
しかし、このような女の財産権はあらゆる点で時勢とくいちがい、女の立場ともくいちがってきた。女の身柄が自族を動かなかった純婿取期までと異なり、夫家の本第に迎え入れられるようになると、生家側からも夫家側からも、武家でいえば幕府の家人制からも、女の財産の帰属については警戒すべき点が多かった。鎌倉幕府の「貞永式目」や「追加」にみられる規定は、女の財産の保護というより制約であり、幕府の意図は、女の財産の縮小または没収にあった。
こうして女の財産権は、南北朝ごろからは急速に衰退していった。
父権とならんだ母権は亡び、父権は逆に時とともに絶対的なものとなる。家領制、惣領制等の氏産的遺制または氏族共有の遺制は破壊され、世帯は家族制に作り直され、親権は家父長権に発展した。女は財産をうしなって依存者となった。
読んでもらってありがとう(^_^)。応援よろしく by岡

次回はついに武家発の嫁取り=家父長婚に大逆転します。お楽しみに

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