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2007年08月13日

ことわざに見る日本と西洋の違い

日本と西洋のことわざの違いについて記述した面白いサイトを見つけましたので紹介します。
ことわざは、庶民の暮らしの様子や人々の意識そのものを表したものかと思います。
なかなか興味深い内容です。
(↓クリックすると大きくなります。)
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「借りる」ことが日常生活だった
ことわざに見る、日本人のレンタル観
 より。
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「砥石は借りると言わずしてくれろと言え」
「鰹節と砥石の借入れはない」
こんな故事成語を見ていると、日本という国は、本当に「貸し借り」の文化を大事にしてきたんだな、ということがよく分かります。「砥石」は借りるものではない、なんてわざわざ言ってるんですからね。早い話が消耗品は貸すものじゃないよ、ということでしょうが、それをわざわざことわざにしてしまった、というところに、日本文化の面白さがあります。これは、つまり、「消耗品でなかったら、何でも借りてしまおう」ということなんですから。
もともと、「個人主義」という言葉はもとより、そういう発想自体を、明治になってから西洋から輸入したくらいの国ですから、「自分の物」「他人の物」という区別が苦手な国民性なのですね。
「長者の車も借りれば三年」
(長者の所有する車でも、いったん借りれば三年間は自分の物同然に使える。借りた物は半分は自分の物と同じであること。(小学館『故事俗信ことわざ大辞典』より))
ということわざもあるほどです。このような考えは、現在にも受け継がれていて、これはことわざではありませんが、「借金も財産の内」なんていう言葉が使われています。「自分の物」「他人の物」という区別が苦手というより、そのような考え方が似合わない国なのでしょう。

「手を借りる」
「手を貸す」
「猫の手も借りたい」
こんなことわざからも、「貸す」「借りる」というのが、いかに日常的なものだったかが分かります。もちろん、それは、かつての庶民生活が、そうやって支え合っていかなければ成り立たないものだったことや、にほんの建築様式が、鍵もなければ、部屋を仕切るものもほとんどない、といった、プライバシーというものの存在が許されないような環境だったことにも関係するのでしょう。しかし、それより何より、「人はみな一人では生きていけないものだから」(『ふれあい』より)というヒットソングがあったように、日本人は、「貸し借り」をコミュニケーションとして、一人で生きているわけではない、という確認が欲しかったのではないでしょうか。
「五体は五つの借り物」
という言葉もあるくらいです。「人間の体は、木・火・土・金・水の五つの万物を形造る元素からできているという意味。仏説からきている。五体は五つの仮り物ともいう。井原西鶴の『好色一代男』に「世は五つの借り物」という文句がある。」(小学館『故事俗信ことわざ大辞典』より)という意味なのですが、これなど、要するに、自分の身体さえも借り物である、と言っているのです。このような、思想(というより『常識』ですね)は、現在、日本人のオリジナリティの無さ、といった指摘を受けていますが、それは、そういう美学であり、生活の知恵でもあるのです。
「借りる」という事が、決して悪いことではなく、それが当たり前のことであり、美学であり、コミュニケーションの手段でもあったということは、例えば「和歌」の世界でも見られることです。「本歌取り」がそうですね。既存の歌のパターンや情景を借りて、新しいものを生み出そうという芸術が親しまれていた、ということにも、日本人の「借りる」ということに対する考え方を見ることができます。
最近では西洋でも、「人間は成長過程で様々な情報を得、それによって人格が造られていくため、本来的な意味でのオリジナリティは存在しない」という考え方が随分広まってきましたが、「五体は五つの借り物」ということわざは、それをずーっと昔に表していたのです。

 一方、目を西洋の方に向けると、日本との余りの違いにビックリしてしまいます。
「金を貸すとしばしば金と友を一緒に失う」
(シェークスピア。『ハムレット』第一幕第三場より)
「友を遠ざけたければ金を貸してやれ」(ハンガリー)
「借りる時は友、返す時は敵」(フランス)
「借る者は貸す人の僕となる」(『旧約聖書』「箴言」22・7)
この手の、「貸し借りは不実の始まり」とでも言うような言葉は、西洋全域にわたって驚くほど頻繁に言われているようです。流石は、個人主義の行き届いたお国柄、と言うべきでしょうか。前に日本建築の話を書きましたが、西洋は、石造りで鍵の文化が発展していた、ということも関係あるのでしょう。
このような言葉は、現在では日本でも多く言われていることですね。「友達同士の金の貸し借りは絶対にするな」と、子供に教えているご両親も多いですね。しかし、この手のことわざは、日本にはほとんど無いのです。せいぜいが、
「金を借るは憂いを借る」
ということわざが見受けられる程度で、しかも、全く同義のことわざがイギリスにもあることや(He that goes aborrowing, goes a sorrwing)、「憂い」という言葉は、それほど古い言葉ではないことを見ても、このことわざ自体、明治以降にイギリスのものを翻訳したものが伝わっていると考えてよさそうです。
つまり、「信頼」「信用」と、「貸し借り」に対する考え方、生活と「貸し借り」の結びつきなどが、かつての鎖国政策を敷いていた日本と、ヨーロッパの白人社会を中心にした西洋文化とでは、状況も捉え方も全く違っていたのでしょう。それにしても、この手の「借金」の怖さを伝えることわざが日本にはほとんど無い、というのは凄いことですね。

日本人は長く共同体の中で暮らし続けており、周りの人々を信頼し、肯定視するのが当たり前になっていました。
ことわざに見られるように貸し借りはお互い様で、私有意識は結構あいまい、個人主義からは程遠い状況です。
一方西洋では、周りに対する根本が警戒心となっており、自分と周りを厳然と区別していることが分かります。警戒心、私有意識、個人主義をベースに人々の暮らしがある、そんな感じでしょうか。
現在の日本人は西洋の影響を色濃く受けていますが、それが本来の姿ではなく、周りの仲間と共におおらかに、協働して生きてきたのが日本人なのだと感じます。

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