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2007年11月17日

ヘヤー・インディアンの学習法~「よく観て、真似る」

厳しい自然環境の中で生きるヘヤー・インディアンにとって、狩猟や皮なめしの技術を習得することは、生きていく上で欠かせません。(ヘヤー・インディアンは、『ヘヤー・インディアンにおける「いのち」~共同体社会の生命観』『ヘヤー・インディアンの「テント仲間」』を参照ください)
そんな彼らに「誰から教えてもらったのか?」と聞きくと、「自分で出来るようになった」「自分で覚えた」と答えます。
ただし、これは、「誰かに教えてもらうことなく“自分”だけの力で出来るようになった」ということではないようです。どこかで誰かから学ぶことで習得しているのですが、そもそも彼らには“教える、教えられる”といった概念がないために、質問にうまく答えられないのかも知れません。
(“教える、教えられる”は、白人との接触の深かった個人や、学校教育を受けた人たちが理解しているに過ぎないようです)
では、彼らはどうやって学ぶのか?その秘密は、ヘヤー式の学習法“よく観て、真似る”にあるようです。
■ヘヤー・インディアンが暮らす地域を流れるマッケンジー河
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■ヘヤー・インディアンは、極北を流れるカナダ最大の大河“マッケンジー河”流域に点在する極北のインディアン。グレート・ベアー湖のほとりに、彼らのコミュニティーの中心“フォート・グッド・ホープ交易所”がある。(地図は「アジア見聞録」さんからお借りしました。クリックで拡大します)

原ひろ子著『子どもの文化人類学』より引用
テントで、私が何げなくおしゃべりをしながら、折り鶴を折っていると、十歳前後の子どもたち(女の子が多かったのですが、男の子もいました)がとてもおもしろがりました。
そして、「もう一つ折ってくれ」と何度もいうのです。何羽も折っているうちに、こんどは「紙をちょうだい」といって、自分で一生懸命に折り始めました。
けっして、「初めにどうするの」などと聞いてきません。「もっとゆっくり折って」とも「これでいい?」とも言わない。「教えてよ」とはいわないのはもちろんです。いろいろやってみて、自分で「これでできた」と思うときに、私のところに見せにくるのです。そして私が「この鶴は疲れているみたい」とか「これは、遠くまで飛びそうだ」とか「きれいね」とかいうのを楽しそうに聞いている。彼らは、「ヒロコが作ったので、自分も作った」と思っています。
何羽も何羽も鶴を折った後で、子どもたちは「ほかに何が作れるのか?」と聞いてきます。「こんどは違ったものを教えてよ」とは言いません。

ヘヤー・インディアンにとって学ぶということは、「よく観て、真似てみて、出来なければ修正する」ことで、それを繰り返すことで自然に身についていくもののようです。“教える、教えられる”という事を考えるまでも無く、日常的な生活の中で、“真似て、真似される”ことで、技術が継承されていく。そして、だれもがその役割を担っている。
「自分で出来るようになった」とは、自惚れでも何でもなく、聞かれたからあえて言葉にしただけなのでしょうね。“よく観て、真似る”ことが生活そのものならば、あえて意識する必要もないですから。なにしろ、狩猟や皮なめしがうまい大人は回りにたくさんいるし、自然の真っ只中で生活しているのだから、“真似る”相手には事欠きません。
そういえば、日本の伝統的な職人世界の「技は盗むのも」に通じるものがありそうです。(もっとも現代では、そんな修行に耐えられれず、伝統を継承する若者は減っていますが・・・)
厳しい自然環境の中で狩猟採集生産を生業とする生活は、何をするにも「生きる」という課題に直結しています。そんな外圧状況に適応するために培われた学習方法なのだと思います。“よく観て、真似て”沢山の役立つ事を身に着けていく子どもたちの活き活きとした顔が思い浮かびます。(@さいこう)
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