2007年11月28日
民衆の踊り「盆踊り」「田楽」
こんばんは。
「共同体と踊り」の2回目!
今日は民衆達の踊りについてみてみましょう!
民間の祭礼などで演じられる舞としては「盆踊り」がに有名ですね。
誰でも一度はお祭りや学園祭で踊ったことがあるのでは?
また農村では、豊作を祈る「田楽」という踊りが今も息づいています。
この「盆踊り」と「田楽」、その起源を追求して行くと幾つかの共通点があり、ここから民衆が「踊り」に託した想いが読み取れそうです。
■田楽
田楽は七世紀ごろから、農民の間に芽生えたものとされています。
その由来は、田植えの前に豊作を祈り、神に感謝することを目的とていたもので、
田の神をまつるため笛・太鼓を鳴らして田の畔で歌い舞った田舞に始まるのだそうです。
やがてこの舞を専門とする人達が現れます。
田楽法師です。
彼らは腰鼓・笛・銅拍子(どびょうし)・簓(ささら)等の楽器を用いた群舞と、高足(たかあし・竹馬みたいなものですね・・)に乗り、品玉(しなだま)を使い、刀剣を投げ渡しなどする曲芸とを本芸としました。
ちなみに
今も私達が口にする味噌田楽は、この「高足の舞」をまう田楽法師の姿から来ているそうです。
田楽はやがて大衆芸能として発展し、果ては天皇が鑑貧されるまでに盛大となって行きます。
しかし、その根っ子に息づいているのは「豊作への祈り」と「田の神への感謝」です。
■盆踊り
koukeiさん
の記事にもありますが、民間の踊りでもっともポピュラーなものが盆踊り!
全国各地に様々な節があり、しかもそれらを知らなくても見様見真似で輪に入れてしまうのが凄いところですが、その起源にも「自然への感謝」を見て取ることが出来ます。
盆踊り、その起源は鎌倉時代の念仏踊りに遡るのだそうです。
法然上人が讃岐の国(今の香川県ですね。)で村人達の踊りを見て、セリフとして「念仏」を唱えさせたことがその始まり。
で、その村人達の踊りというのが・・・・
「雨乞いの踊り」!
菅原道真が886年から889年の4年間、讃岐の国司を勤めた時に行った「雨乞いの踊り」。
これを翌年から村人達が感謝の意味で踊ったのだそうです。
降雨量の少ない讃岐の国にあっては、「雨」は天の恵みであり感謝の対象だったわけです。
この様に、大衆の踊りは、その根っ子には自然やそれを司る神への「祈り」と「感謝」という想いがありそうです。
そしてそれは共同体の基盤を作っていた生産活動、例えば農業等に代表されています。
当然、農業は共同体全員の課題です。
こうした「踊り」を通じて共同体の成員達は、自然への感謝と、それを通じて共同体の結束を固めていったのだと思います。
ご静聴有難うございました!
- posted by yama33 at : 2007年11月28日 | コメント (3件)| トラックバック (0)
trackbacks
trackbackURL:
comments
ターリ儀礼って結婚式にあたるみたいですが、初潮前の少女と二人きりで3日間過ごしても、性交渉あるなしに関わらず、子供はできないと思うのですが、結婚としての意味性がわからないのですが、どういった意図での儀礼なのでしょうか?
しかも10年に一度!・・・・・???
教えて頂けるとありがたいです。
マニマック さん、こんにちは。調べてみたのですが「ターリ儀礼」がどんなものなのか詳しい事は分かりませんでした。
「タラヴァード」は、生産・生殖が一体となった共同体であるのと同時に、軍事組織としての機能もあったようです。
そこで、以下推測です。
かつて「ターリ儀礼」で、(集団によって)選ばれる男達とは、外圧(他集団との闘争圧力)が高かった時期の勇士だった。つまり「ターリ儀礼」とはもともとは勇士婚。
それが、闘争圧力の低下に伴い、集団統合力が低下し、規範収束力も低下。同時に、外圧の低下につれて解脱収束(中心は性充足の欠乏)が強まっていったことから、勇士婚規範が崩れ、交叉婚(の変形?)である妻問婚に移行。
そして、かつての勇士婚が形骸化して「ターリ儀礼」として残った???
と、考えてみたのですが、実際はどうなのでしょうか?南インドの歴史をさかのぼって調べる必要がありそうですね。
共同体社会と人類婚姻史 | インド南西部ナーヤル・カースト~婚姻様式とカースト制度
comment form