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2008年11月30日

天皇家の婚姻制度

氏姓制度における二元性に続いて、天皇家の婚姻制度をみておきたい。(江上波夫著『騎馬民族国家』より。)
前の記事にあるように、天皇家は臣姓の大和の豪族と密接な婚姻関係をもった。天皇氏と通婚した葛城、和珥、平群、蘇我などの大和の臣姓豪族が天皇氏系ではなくて、土着の国神系の豪族であったとすれば、族外婚であったことになる。
一方、天皇家のメンバーの間でさかんに近親結婚が行われたことは、誰でも知っているとおりで、異母兄妹さえ結婚しているくらい極端な族内婚的現象も見逃せない。(記紀にみる兄妹婚を参照。)
では、天皇家における族外婚と族内婚との関係はどのようなものであったか。
年代からみると、族外婚がもっぱら行われたのは応神(270-310)から三世代目の履中(400-5)・反正(406-10)ころまでで、
四世代目の安康(453-6)・雄略(456-79)以後は、天皇家内部の近親婚と土着豪族との族外婚とが併行して行われており、そのまま天智(668-71)の時代に至っている。
もう一つ、天皇家の婚姻関係で注目すべき現象は継体天皇(507-31)前後に現れたもので、応神以後五世代ころまでほとんどまったくみられなかった、連姓の天神系豪族との結婚である。
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天皇氏を含む天神系民族は、『隋書』東夷伝倭国の条に「婚家同姓を取らず」とあるように、がんらい族外婚を結婚の通制としていたため、おのずから国神系氏と通婚するたてまえとなったが、天皇氏側から弛緩していったように見える。
というのは、天皇氏は応神以後各代国神系の臣姓氏の女を娶っており、国神系民族はがんらい族内婚制をとっていたので、各代母方の結婚制につよく影響された天皇家では、応神朝からわずか三、四代で族外婚制から離脱し、氏族の内外を問わず結婚できる制度に変わっていったことが、事実に即して知られるからである。
そうして連姓の氏と天皇家との結婚が政治的に非常な重要性をもってくるのが、蘇我氏没落後の中臣氏――のちの藤原氏――の勃興からであることは言うまでもない。
引用者注:645年、中臣鎌足と中大兄皇子が蘇我入鹿を謀殺、翌日、蘇我蝦夷も自殺し蘇我本宗家は滅亡した=乙巳イッシの変。
引用者注:大和に朝廷が遷った允恭天皇(412-53)以後は、姻族・外戚である国神系豪族の勢力が、天皇氏や大伴・物部両氏などの天孫天神系のそれを圧するようになり、天皇氏の主体性が著しく損なわれるようになった。これに対して、天孫天神系の主体性回復の行動や措置がとられることになる。上記の乙巳の変を著例とする天神系氏の国神系氏の打倒や、屯倉の設置など大和朝廷の中央集権化政策による国神系豪族の抑制、そして近親婚や連姓との婚姻も天神系氏の体制固めの一環と考えられる。
牧野巽氏らの説では、日本にも、高麗朝末期以前の朝鮮にも、インドシナ半島にも、南海の島々にも族外婚制はなかったという。
引用者注:日本は族内婚から、弥生時代に江南人が持ち込んだ妻問婚へ移行(日本婚姻史2 族内婚日本における私権時代への移行日本婚姻史5 妻問婚~大和時代~ を参照)。高句麗も妻問婚(北鮮の高句麗の婚姻制を参照)。南朝鮮は中国の文献では倭人とされており、江南人が大量に流れ着いていることからもおそらく妻問婚。
とすれば、大和朝廷国家の初期に一時見られた天神系民族の族外婚制はおそらく外来的なものであり、大陸の騎馬民族に通有な族外婚制に連なるものではあるまいか。族外婚制の系統で重要なことは姉妹婚制・嫂婚制の有無である。
引用者注:騎馬民族は一夫多妻制で姉妹婚制・嫂婚制を伴う(遊牧騎馬民族匈奴の婚姻制を参照。)
姉妹婚(連帯婚)制は、天皇家の結婚ではとくに顕著に見られる現象の一つである。姉妹婚は天皇家に限ったことではなく、天神系の氏でも広く行われていたであろう。
しかし、嫂婚制は、大和朝廷国家で一般的であったという積極的な証拠はない。騎馬民族の嫂婚制については、中国人がつねに不道徳として非難しており、記紀に嫂婚制のことがあまり見えないのも、そのような中国的倫理思想に左右された結果かもしれない。
なお江上氏は、天皇家の婚姻制は父系制を想定されているが、平安貴族に至るまで妻問婚(母系氏族を生活拠点とする母系制的対偶婚)であることから、父系制は観念のみの系統意識であって実態は母系制であったと考えられる。

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