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2008年12月02日

天皇家の婚姻制度(2)日本婚姻史より

江上波夫著『騎馬民族国家』の天皇家の婚姻制度につづいて、高群逸枝著『日本婚姻史』より「天皇の家庭」の項を紹介します。日本婚姻史5 妻問婚~大和時代~の章で触れられています。
江上氏は、族外婚と族内婚をキーワードに展開されているが、高群氏は母系妻問婚を軸に、より内実に迫る婚姻制を明らかにされています。以下、抜粋。
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c065-002-t.jpg天皇は母の家に育った。そこがそのまま皇居になった。だから古代の皇居は一定の場所ではなく転々として移ったという説(「古事記伝」本居宣長)がある。推古の言に、「自分は蘇我氏の出身だ」(書紀)とあるのも、欽明皇女ではあるが、母族の蘇我氏に育ったことをいうのであろう。その皇居の豊浦宮も、蘇我氏の当時の本居の地に営まれたものらしい。すなわち豊浦宮も、有名な豊浦寺も、もとは推古の外祖父稲目の居宅だったと諸書に見える。
(写真は「古事記伝」。国会図書館よりお借りしました。クリックすると大きくなります。)
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天皇氏族という固有の父系氏族があって、一定の居所と勢力をもち、それが即位の背景となっていたと考える場合(いわゆる保守派も進歩派もこうした考え方のようであるが)、そうした氏族の存在や居所については深く迷わずにはいられない。
「姓氏録」のいゆる皇別氏を仮にそれだとしよう。その皇別氏には、近江の息長真人氏を筆頭とする350余氏がみえているが、その筆頭氏にしても、招婿出自(応神が近江の息長氏の女を妻問い、生まれた子二俣王が母方の居所と氏称を嗣いで、出自だけ父方の皇別氏に列したもの)であることを歴史は隠していない。皇別氏のなかには部民をなのるもの、緒蕃の姓を負うものも多い。
『新撰姓氏録』氏族一覧1(第一帙/皇別)
『新撰姓氏録』氏族一覧2(第二帙/神別)
『新撰姓氏録』氏族一覧3(第三帙/諸蕃・未定雑姓)
これら皇別氏は、神武から嵯峨におよぶ歴代天皇の子孫であると称しているものではあるが、それらの多くは各地域の固有のばらばらの大小氏族にすぎない。そしてそれらの存在はそれらの本家である天皇氏族の巨然たるべき居地や勢力の存在を示唆すべくなんらのたしにもならない。
天皇は系のみがあって、母族から母族へと転移した抽象的存在形態(ヤマト時代の父系母族制を端的に表現した)ではなかったろうか。とすれば天皇家には家庭もなく、祭祀所兼役所があるだけで、いわゆるキサキも出勤制による役員の一員だったのではなかろうか。そして天皇のこうしたありかたが、天皇の弱さとともに強さの鍵でもありはしなかったろうか。
わが国の多くの歴史家たちは、家父長婚たる嫁取婚を最も早く発生した場所として天皇家をみているようであるが、はるかに下った平安ごろをみても、それは決して嫁取婚ではない。わが国の皇后は江戸の儒学者が非難したように(この非難は当らないが)嫁取婚でない入内のしかたをしている。
つまり皇后としてではなく、侍寝職の女御、女官職の内侍、更衣等として入内し、そのなかから事後的に選ばれて立后するが、立后後も自己氏族から断絶されておらず、氏后として氏祭を司り、氏第を本拠として子生み子育てをなし(この状態は物語等にたくさん出てくる)、その財産は氏族が相続し、死ねば氏族の墓地に葬られる。天皇家に厳格な意味で嫁取婚が発生したのは、明治以後であると私は思っている。
皇后を古語ではキサキといった。当時は人はこれに漢字をあてて「鬼前」と書くこともあったらしいが、「日前」と書くべきであろう、日や火は古語ではクまたはキといった。日下部(クサカベ)、火島(キシマ)、火所(クド)の類である。キサキは大昔は皇后ではなくて、執政者の姉であったろう。姉が日神または火神の前に侍して神のミコトノリを伝えると、弟がそれを受けて政治をおこなった。だからこの姉弟は、複式族長であり、姫彦制の姫(日女)と彦(日子)であった。
「魏志倭人伝」にも女王ヒミコが神につかえ、それを男弟が助けて政治をとったと書いてある。こうした複式族長制の例は多い。佐喜真興英「女人政治考」(大正15年)によると、沖縄の祭治組織はこれであった。また古代エジプトの姉弟による共同支配もこれであろう。
3世紀ごろまでは、わが国でも姉弟による祭治制であったと思われるが、いわゆる祭王ヤマト姫が日像を奉じて伊勢に去ると、祭王ヤマト彦(根子)は、模造の日像を皇居の賢所(中ッ宮)にまつり、擬制のキサキをそれに仕えさせたと私は想定する。そしてそのキサキを内実的には配偶者とした。キサキと皇后が混同したのは、この段階からであった。
しかし、そのキサキも、擬制とはいえ、宮中での最高の司祭であり、複式族長の一であるたてまえなので、主として皇族圏(それは天皇相続者とおなじく、有力母族―たとえば、息長氏、葛城氏、吉備氏、春日氏、蘇我氏等に生まれて育っていた)から選ばれねばならなかった。この意味でキサキ制は、部族連合の共同祭祀の一様式でもあった。ついでにいうと、ウネメもキサキも同じく部族連合の共同祭祀の一象徴であった。ウネメもまた有力な国造族から出勤した。これも天皇の内妻であることが多かった。
日本の祭治制は、みぎのような形での変質的形態を、4世紀ごろから維持してきたが、それも大化に崩壊し、一君万民の君主制となった。そして賢所の祭祀は、キサキから内侍にうつり、皇后はもはやキサキ(日前)の意味をなくして純配偶者となったので、その出自も光明皇后からは非皇族でもよいようになった。
この時期の天皇の家庭生活をみると、以上のように、そこにはそれらしいものはなく、祭祀所と役所のみがあったし、それがたてまえであったと思う。
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comments

なるほど、支配層と違って、昔の農民は子孫に残す私有財産などなかったのですね。
子孫に引き継ぐべき物は、私有物ではなくて「稲作共同作業のシステム」つまり、惣村という共同体そのものだったんですね。
すご~くイメージが明確になりました。
私有意識の低い農民は、私権継続を目的とした「家父長制」の一対婚など、表層的にしかなりませんね。逆に、村みんなの男女関係を維持する為に、日本全国には、「若衆宿」「娘宿」「夜這い」などと言う大らかな性文化が、多彩に残存していたのも頷けます。

  • 文無し
  • 2009年2月25日 10:19

中山太郎の「日本婚姻史」を読んでも分かるように、お上から(徴税のために)押し付けられて形の上(戸籍上)は一対婚であっても、実際の婚姻制(男女関係)は、村では全く違っています。
その婚姻制度も地域によって実に様々で、一対婚という制度はあっても実態は違う、まさに「表層的」なものだったのでしょう。ある意味、現代の男女関係もそうかもしれませんね。。

  • まりも☆
  • 2009年2月26日 23:07

支配層のように、私権を獲得するのが課題ならば、武力を高める為父系制になるし、農民のように協働課題があれば共同制が残り、それが根本的には婚姻様式にも反映されるんですね。(形の上の婚姻様式は別でも、意識の上では違うわけですね)

  • 鯉太郎
  • 2009年2月27日 00:10

>文無しさん、まりも☆さん、>鯉太郎さん コメント有り難うございます!
この記事の最大のポイントは、皆さんも認識されている様に「農村」には生産様式に合った営みが成されており、当然ながら婚姻制もそれに伴った形態になるのが自然な流れだと言うことだと思います。
だから、(父系)一対婚も表層的にしか捉えられていなかったと想像できるし、様々な婚姻様式(若衆宿など)があるのも理解できます。
次回は、その生産様式が文明の流入によってどの様に変わっていくかがポイントではないでしょうか。
(今のところをもう少し追求してみたいですが・・・。)

  • by minene71
  • 2009年3月5日 23:16

共同体社会と人類婚姻史 | 日本婚姻史のターニングポイント2 農民は母系制を継続できたか?

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