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2008年12月07日

中山太郎の「日本婚姻史」から~共同婚~☆2☆

shiseki07.jpgはやいもので、今年も残すところあとわずかとなりました。 ばたばたと忙しくて心に余裕のなくなる時期ですが、昔の日本の大らかな婚姻制に触れると、大きな視点でものが考えられるようになるかも
また、このブログでも、たくさんの追求投稿で日本人とは何か?の解明が進んでいますが、昔からの積み重ねである婚姻にかかわる風習等を紹介することで、日本人解明の一助になればいいなぁ 😀 とも考えています。
画像は泊屋(若者宿)です。こちらからお借りしました。
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前回の「共同婚」のつづきをご紹介します。なお、原文が旧字体・文語調の文章であることと、著者が新聞記者出身であるためか、小題のつけ方(は原文のままの小題です)や文章全体が固い感じがして読み辛いかもしれませんが、ご了承ください。なるべく原文に近いままご紹介したいと思います。

第三節 共同婚の流れを伝えた女子共有の土俗
古くから各地に亘り女子共有(概して一部落内に限られる)の土俗が存在した事は、共同婚のあったことを裏付ける事実と見て間違いなさそうである。かがいや歌垣と同じく、女子共有の土俗も共同婚の余流と考えられるからである。

処女は若者の共有物たりし類例
陸奥国東通村:明治の初期までは村の娘と出戻りの婦人とは青年男子の共有物であった。娘達は十五歳になると娘宿に泊まりに行き、村の青年達の要求には絶対に従う事になっていた。理由なく拒絶すると、拒絶された男子は直ちにこのことを娘の父兄に知らせると同時に村中に報じる。娘の父兄は娘を一室に二週間も監禁して村の掟を説くが、それでも従わなければ村から放逐する。また、反対に外来者に対しては、娘達は絶対に貞操を固守せねばならず、背くと同じく放逐される。実際に、区長が娘を青年に提供しなかった為に、襲撃された事実がある。

羽後国檜木内村:妙齢の女子を持つ親達は、旧正月十五夜に、一定の場所に仮小屋を設け、青年の男女を会合して徹夜させることになっていた。もしこの会合に娘を出さぬ親があると、大勢の青年が押しかけて砂石を飛ばし誹謗をなし、さらにその娘の嫁入の妨害まで行なった。

娘の嫁入には若者の承諾を要件とす
羽後国秋田群の村々:「媒介者の斡旋で縁談が進むと、新郎新婦の双方とも家族や親属の承認を経ることは勿論だが、更に村内の友人(即ち若者達の意)の異議の無いということが成立の要素となっていた。かくてこれ等の者が総て承知すれば内約を取り結び、改めて組頭へその旨を口頭で届け出で式を挙ぐることになっていた。」

こうして若者の異議の有無を確かめるということは、未婚の女子は村の若者の共有であるという習慣から導かれたもので、親達と言えども、若者の承諾を得なければ嫁入りさせる事はできなかった。

露骨で極端なる女子共有の風俗
「越後三條南郷談」より:明治四五年までは毎年盂蘭盆になると、村の若者が盆の休日間だけの妻女を村の娘の中から籤(くじ)引きで決めた。もし自分の気に入らない娘が当たったら、清酒一升を出せば取りかえてもらえた。勿論、この盆くじが縁で夫婦となる者も多い。村内の男女の数に過不足があるときは、その数だけ白籤を入れ、引いたものはその年だけ妻なしで過ごす。ただし酒を出して娘を譲ってもらう事はできた。

村の娘の結婚の許可権は若者の手に
加賀国能美群:処女は村の若者の共有である。認めぬ家があると、若者が大挙してその家の屋根をめくり、またその娘の嫁入りを妨げて婚期が遅れるようにした。また、その娘が生活に困っても、同情せぬのを常とした。

美作国勝北群:娘は若者の共有物であり、他村に嫁ぐには若者団体の承認を要した。もし若者団体が異議を唱えたら、若者と仮に配婚して、その後に他村へ嫁ぐ習俗となっていた。

丹波国志賀郷村:村内の男女同士で結婚することが慣わしであり、これを破ると両人を素っ裸にして提灯を持たせて村民がその後ろにつき、村内を囃しながら歩かせる制裁があった。

安芸国十二ヶ浦:娘が他村のものと関係することは禁じられていた。破ると、『樽入れ』と称して、村の若者から僅かな酒肴をその娘に送る。これを受けた娘は日時を定めて氏神の社に村内の人々を招き、できるだけ手厚い酒食の饗応をせねばならず、これを『樽開き』と称した。これに要する莫大な費用は他村の男の負担となり、この樽開きをしないとその男と結婚することはできなかった。

『女子共有』という言葉そのものは、女を所有物とする近代の価値観から出てきているようです。そこを差し引いて実際のところどうだったのかというと、村落共同体での「性」はその集団での最重要課題であり、だからこそ成員みんなが充足できる=みんなが認めるやり方として規範化されていたようです。だからこそ、規範を破れば制裁があり、ただその制裁をきちんと受ければ、規範外の婚姻でも認めるところもあるように、一定の柔軟さも感じます。

ここまで書いてきましたが、またまた長くなってしまったので、つづきは後日お届けします ☆

お楽しみに

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comments

発表当時は、
>②弥生早期の出土とされてきた鉄器が本場の中国よりも古くなる
点が反論の中心だったような記憶がありますが、その後解消したようですね。
その辺りを紹介していただけるとありがたいです。

  • 2009年2月22日 19:52

岡さんへ
コメントいただいた件、了解しました。
2004~2008年の経過を調べてみます。

  • nandeyanen
  • 2009年2月22日 23:45

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