2009年02月10日
日本婚姻史のターニングポイント:群婚から私有婚へ、そして母系から父系へ
日本婚姻史5~10の大和時代から鎌倉時代とは、群婚が崩壊した後、個人婚としての「妻問い婚」から「婿取り婚」、そして最後は「嫁取り婚」へと移り変わる直前までの時代にあたります。
この期間は日本婚姻史の中でも重要なターニングポイントである、群婚から個人婚へ、そして母系から父系への転換の時代であり、その意味で非常に興味深い部分だと思います。
このような劇的な変化がなぜおきたのか、その必然性について当時の社会状況を外圧の変化に着目しながら2つめの大転換である母系から父系への転換について整理してみたいと思います。
いつものように応援よろしくお願いします。
■土地の所有化
生産様式が採集(移動)から農耕(定住)へと変わり、土地を所有する様になると、私有意識の芽生えとともに、婚姻様式も集団婚から個人婚へと移り変わります。
(「早分かり日本史」~日本実業出版より)
土地制度は、まず
大化の改新以降、「公地公民」により、全ての土地は国家の所有とした。
①土地所有の始まりである
同時に口分田を貸し与えそこで取れたものを徴税させる班田収授法が施行される。
その後人口の増加に伴い口分田が不足し、三世一身法により開墾した土地の(期限付き)私有を認める。
②土地の私有化である。
さらに開墾を進める為に墾田永年私財法により、私有を永久に認める。
この結果財力のある寺社や貴族が開墾を進め、その土地は荘園と呼ばれた。
その後開墾者は、租税を免れる為に土地を有力貴族や寺社に寄進する「寄進地系荘園」が主流となり、彼らの権威に守られ荘園は国家の支配から解放されてゆく、
③荘園制度が確立されてゆく。
その後開発領主の多くは武装化して武士となり、守護・地頭となって土地の所有を保証される。
土地を耕作するのは農民だが、開発領主、その上の領家、本家といった中間搾取層が存在しており、豊臣秀吉の段階で「兵農分離令」により中間搾取層の排除と一地一作人制の確立と、それにより
④荘園制度は消滅し、土地は農民のものとなる
⑤江戸幕府による「田畑永代売買の禁令」などにより、農民の土地売買の自由がなくなる。
⑥明治時代以降の地租改正令により再び土地が自由化され、税を払えない農民は土地を売り払い小作農となってゆく。
⑦第二次大戦後の農地改革により小作農が再び土地を得て自作農になる。
■土地をめぐる闘争=私権闘争が激化
土地制度の移り変わりで注目すべきは、「飛鳥~鎌倉時代」とは荘園制への転換期であり、さらにその荘園の拡大をめぐる争い、つまり有力支配層においては私権闘争が進んでゆく時代である。
■闘争の中心は男→男残留
どの闘争集団においても、闘争を中心に担うのは男である。したがって闘争における中心戦力である男の数は多いほうが有利になる。
また、そのような男を集団内に残すということは、男が持っている力=闘争力、知識、財産etc、全てをセットで残すことになる。
■財産の相続権も男に移行。血筋の相続とともに母系から父系へ転換!!
したがって男が集団に残るということは、血筋と共に財産も相続することになり、ここにおいて完全に母系から父系への転換が生じてくることになる。
●この間の婚姻様式
妻問い婚(大和)→前婿取婚(飛鳥奈良平安)→純婿取婚(平安(中))→経営所婿取婚(平安(末))→擬制婿取婚(鎌倉南北)
と移り変わる中で、妻の集団内に男が入ってゆく妻問いから、住処も妻の集団の外に出て、さらには夫の集団内に居を構えるというように、女残留から男残留へと変化してゆく。
同時に夫婦の財産も妻相続から夫相続へと移り変わってゆくのである。
武家社会となり、勢力が拮抗した武士同士で武力闘争が激化するにいたり、ついに婿取婚から完全な嫁取婚へと移行するのは、上記の様に私権闘争に勝つ為に、集団内で男残留の為に全ての産を受け継がせる必要からだと考えられる。
~by saah
- posted by saah at : 2009年02月10日 | コメント (4件)| トラックバック (0)
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