2009年09月19日
同類闘争と共認機能vol1
【ゲラダヒヒによる初期人類の集団形態の推測】【共認機能による実現態を探る】では、共認機能の獲得によって、サルの段階で構築できた集団(実現態)を紹介してきました。
マントヒヒの父系重層社会とゲラダヒヒの母系重層社会のように、共認機能によって同類闘争を極力回避した事例でしたが、今回は原点に立ち返り、共認機能自体どうやって獲得に至ったのか、るいネット『実現論』より紹介したいと思います。
それでは6000万年前のアフリカの樹上空間をを覗いて見ましょう
その前にポチッとお願いします。ではいってらっしゃ~い。。
同じ原モグラから出発して樹上に逃避の場を求め、樹上機能(後ろ足の指で手と同じ様に枝を掴める)を発達させて遂に樹上で棲息するに至った原猿は、大きな可能性を獲得すると同時に、大変な問題に直面することになる。
まず、樹上には外敵が殆どいない。その上、樹上には栄養価の高い果実や木の実が沢山ある。従って、陸・海・空とは別の樹上という第四の世界をほぼ独占した原猿たちは、最高の防衛力と生産力を手に入れたことになり、忽ち森林という森林を埋め尽くして(その食糧限界まで)繁殖していった。
そこで、彼らの最強本能たる性闘争=縄張り闘争の本能が問題化する。この本能は、激しい個間闘争によって敗退した大多数の成体が行き場を失って外敵に喰われ、あるいは餓死することを前提にしている。簡単に言えば、大多数が死んでくれることによって調和が保たれる本能である。
確かに、半地下(ほぼ地上)であれば縄張り(言わば土俵)から敵を追い出すのは簡単である。しかし樹上には何本もの枝があり、降りれば地上があり、しかも縄張り内には何百本もの樹がある。この様な縄張り空間では、1匹の覇者が多数の敗者を縄張りから完全に追い出すことは不可能である。たとえいったん追い出したとしても、追い出された者は樹上逃避できるので、外敵に喰われることなく大多数が生き残る。そして、生き残っている以上、彼らは常にどこかの覇者の縄張りを侵犯していることになる。
敵(=縄張りを持つ覇者)はメスの掠奪は許さないが、縄張り周辺でのエサの掠め取りまでは手が回らない。もちろん、首雄が恐ろしいので、彼らは概ね各縄張りの境界線上にたむろすることになるが、そこでは充分な食糧を得ることができない。
かくして、樹上逃避機能を獲得したが故に死なずに、かといって縄張りもなく中途半端に生き残ることになった原猿たちは、本能が混濁して終う。しかも彼らは、絶えざる縄張り侵犯による過剰な緊張や怯えや飢えの苦痛など、全ゆる不全感に恒常的に苦しめられることになる。同じ性闘争本能を持つ肉食動物や草食動物がぶつかったのは本能の適応不足=限界であり、それは全ての生き物の本能が孕んでいる限界と同質のものであるが故に、彼らの限界も他の生物と同様に、無自覚のDNA変異によって克服されていった。
しかし、原猿がぶつかったのは単なる本能の限界ではなく、絶えず生存の危機に晒され不全感覚が刺激され続けるという意識的な極限状態であり、しかも本能そのものが混濁するという本能の不全(縄張り闘争には勝てないのに、死なずに辛うじて生きている)故に、本能ではどうにもならない(従って本能を超え出るしかない)という未明課題だったのである。
彼らは恒常的に飢えの苦痛に苛まれ、いつ襲ってくるか分からない敵=首雄の攻撃に怯えながら暮らしていたが、それらの極度な不全感が生命の根源を成す適応欠乏を強く刺激し、生起させた。加えて、恒常的に強力な危機逃避回路(未解明だが、おそらくアドレナリンetc.の情報伝達物質)が作動する事によって(これも未解明だが親和系のオキシトシンetc.による性封鎖力ともあいまって)性闘争が抑止され、それによって、モグラ以来性闘争物質によって封鎖されてきた追従本能が解除された。かくして、不全感の塊であった境界空域の弱オスたちは、適応欠乏に導かれて強く追従本能に収束する。
しかし、互いに追従し合っても、誰も(縄張りの確保あるいは不全感の解消の)突破口を示すことは出来ない。そこで、わずかに可能性が開かれた(=不全感を和らげることのできる)親和本能を更に強化し、追従回路(アドレナリンetc.)に親和回路(オキシトシンetc.)が相乗収束した依存本能に収束してゆく。つまり、「縄張りを持たない敗者たちが互いに身を寄せ合う」。
不全課題を抱えて依存収束した弱オスたちは、依存し合う中から、「どうする?」⇒「どうにかならないか?」と可能性を相手に求め、互いに相手に期待収束してゆく。こうして、依存収束⇒期待収束し、互いに相手を注視し続ける内に、遂に相手も同じく依存し期待している事を発見し(探り当て)、互いに相手の課題=期待を自己の課題=期待と同一視して理解し合うに至った。
自分以外は全て敵で、かつ怯え切っていた原猿弱者にとって、「相手も同じく自分に依存し、期待しているんだ」という事を共認し合えた意味は大きく、双方に深い安心感を与え、互いの不全感をかなり和らげることが出来た。
この様に、不全感を揚棄する為に、相手の課題=期待を自己のそれと重ね合わせ同一視することによって充足を得る回路こそ、(未解明だが、おそらくは快感物質βエンドルフィンを情報伝達物質とする)共感回路の原点である。この安心感+が、相手+⇒仲間+共感を形成し、原猿たちは不全感の更なる揚棄を求めて、より強い充足感を与える(=得る)ことのできる親和行為(スキンシップなど)に収束していく。そこでは、相手の期待に応えることが、自己の期待を充足してもらうことと重ね合わされ同一視されている。つまり、相手の期待に応え充足を与えることは相手に期待し充足を得ることと表裏一体である。
従って、相手の期待に応えること自体が、自己の充足となる。共感の真髄は、そこにある。共感の生命は、相手(=自分)の期待に応望することによって充足を得ることである。こうして、不全感に苛まれ本能が混濁したサルたちは、その唯一の開かれた可能性=共感充足へと収束することによって、はじめて意識を統合することができた。これが、サル・人類の意識の、第一の統合様式たる共感統合の原基構造である。
補:六〇〇〇万年~三〇〇〇万年も昔の原猿時代に形成されたこの共感機能は、その後真猿時代の共認機能(規範や役割や自我を形成する)や人類固有の観念機能を生み出してゆく。逆に云えば既に無数の規範や観念に脳内が覆われた現代人には、原基的な「共感」をイメージすることが極めて困難である。しかし、ごく稀にそれに近い感覚を体験することはある。例えば阪神大震災の時に、多くの関西人が体感した感覚が、それである。大地が割けたかと思う程の大揺れに見舞われ生きた心地がせず、足が地に着かないような恐怖に慄いている心が、外に出て誰かと言葉を交わすだけで(それ以前に、生きている人々の姿を見るだけで)、すーっと安らぎ、癒される感覚、その時作動していたのが意識の深層に眠る原猿時代の共感充足の回路ではないだろうか。特に留意しておきたいのは、その凄まじいほど強力な安心や癒しの力は、自分の家族や知人からではなく(そんな意識とは無関係に)、誰であっても誰かが居りさえすれば湧き起こってくるものであったという点である。
我々の中にある、本能の上に作られた共認機能がどういったものか、お解りになられたでしょうか?
次回、樹上で起こった外敵闘争ではない新たな圧力=同類闘争について、紹介させていただこうと思います。
- posted by yidaki at : 2009年09月19日 | コメント (17件)| トラックバック (0)
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comments
一国一言語は、日本では当たり前ですが、他には本当に少ないんですね。
中国もインドも他民族、多言語、他宗教ですし、アメリカにいたっては寄せ集め国家ですもんね。
陸続きの国は侵略が絶えなかったのに対して、侵略を免れた日本には、言葉(観念)を超えた様々なコミュニケーションが発達していそうだと思いました。
「日本語の成り立ち~縄文語」シリーズいよいよスタートですね。
私がアップした記事「日本人の言葉と共認内容~縄文語について」http://bbs.jinruisi.net/blog/2009/09/000665.html
で提起した内容が、もっと本格的に追求できそうですね。
図らずも言いだしっぺになれて光栄です。
「日本人の本源性と可能性は、縄文以来「ことば」を介して受け継がれてきた共認内容に宿っている」ことが、明らかになるところまで行ければいいのですが…。
特に言語学の分野は、単一言語の日本人には、実感し難い領域が多く、理解するだけでかなり骨が折れますね。
でも「日本人の可能性基盤を発掘しよう」ということならやりがいもあるし、避けて通れないテーマです。
気合入れていきましょう!
一民族一言語って、世界的にも珍しいなんて知りませんでした。他の国家や民族の言語がとても多いことにも驚きです!
尚且つ日本語は多様であるというのも言われてみれば、なるほどですね☆
思いのほか日本語って、かなり特殊な言語のようですね。気になってきました。その日本語の謎に迫る今後の展開楽しみにしてます!
hiroshiさん、コメントありがとうございます。
>侵略を免れた日本には、言葉(観念)を超えた様々なコミュニケーションが発達していそうだと思いました。
日本語には心理内容を表わす言葉が豊富で、外国人には理解しにくく、外国語に訳せないものが多くあるそうです。
例えば、「気」という言葉を使った表現で、「気にかける」「気に障る」「気にやむ」「気を配る」「気がねする」「気がおけない」「気まずい」「気がひける」など、微妙な心理の動きを表わす語彙は訳し分けることができないそうです。
また英語には「もったいない」という単語がなく、「懐かしい」「名残惜しい」「さりげなく」「無心に」「あやかりたい」などもぴったり当る英語がないようです。
逆に恋愛に関する語彙は少ないそうです。
Nandeyanenさん、コメントありがとうございます。
日本語は欧米の言語学の体系に当てはめてもうまく行かないと言われていますね。「言葉」から共認内容を探るのは、次のシリーズになるかもしれませんね。
よろしくお願いします。
海人さん、コメントありがとうございます。
一国にたくさんの言語があると、そのうちのどの言語を<国語>にするかがやかましい問題になり、例えばベルギーではオランダ語とフランス語の両方が国語、スイスの憲法ではドイツ語、フランス語、イタリア語、ロマンス語を国語としているそうです。
国によってはゴタゴタするところがあって、インドネシアでは、ジャワ語を国語にしようとする動きがあったので、それを斥けてインドネシア語を国語にするため、憲法に一条を書き入れるというひと悶着があったそうです。
一つや二つだけを国語と決めると、他の言語を日常語としている人たちにとってははなはだ面白くないわけで、そこで国語の他に<公用語>というものを認めている国が多いそうです。公用語で新聞を発行させ、ラジオ・テレビも公用語を使っていいことになっているのです。
その代表がインドで、10以上の公用語を使っており、例えば紙幣には「二ルピー」と全部の公用語で書き表わされているそうです。
国語も公用語も日本語一つしかないというのは、稀有な特徴ということになりますね。
一民族一言語って、世界的にも珍しいんですね。
現在の世界共通語は、「英語」ですが、これはイギリスが世界制覇したからであり、その言語が優れているからではありません。
使っている人数からすると、中国人の人口からしても中国語は侮れないような気がします。
ともあれ、欧米人から見た難解な「日本語」は、その複雑さが実は非常に重要な要素なのかもしれないと、本記事を見て思いました。
複雑な日本語を前にして、簡単で分りやすい言語が優れている自国語を正当化して、日本語を低俗であるかのような発信に騙されないようにしたいと思います。
だから、鳩山首相も英語で発信しないで、日本語で発信して欲しい。
英語が話せるやつが、偉いと言う間違った認識を正して欲しい。
正しい日本語を話せるやつが、カッコいい日本人ですよね。
猪飼野さん、コメントありがとうございます。
明治以来、「日本語は取るに足らない言語である」とか「出来の悪い欠陥言語」だと勝手に思い込み、西洋の言語を採用しなければ世界の文明から取り残されてしまう、と言ってきた人たちがいるそうです。
代表的には、明治の初代文部大臣森有礼は、遅れた日本語では進んだ西洋文明を取り入れ国を発展させることは難しいので英語を国語にしようと主張。志賀直哉は敗戦を漢字学習の効率の悪さのせいにしてフランス語を国語にすべきと主張。尾崎行雄は非能率な漢字を追放しなければ日本の民主化は望めないと主張。
このような思い込みや洗脳から脱却し、事実に立脚する重要性を発信していきたいですね。
小泉さん、池橋さんの日本語分析については当方もこの2月に取扱いましたので、どのような内容で書かれるのか楽しみにしております。
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/MYBLOG/yblog.html?m=lc&sv=%C6%FC%CB%DC%B8%EC&sk=0
Kawakatuさま、コメントありがとうございます。記事拝見しました。
日本語については、語彙は南方系、文法は北方系という南北問題が横たわっており、私も同様に頭を抱えています。
小泉氏も、縄文基語そのものがどのようにして形づくられたかは太古の霧の中に包まれている、と筆を置かれましたので、謎のままです。
ただ北方と言っても、いわゆる新モンゴロイド(寒冷地適応した人々)ではなく、その前に古モンゴロイド(スンダランド発の人々)が大陸を北上しているので、その中にアルタイ系の文法をもった一群がいてもおかしくないではないか。
Y染色体タイプも同系が大陸にいない、日本語も孤立語だとすれば、アジアのどこにも存在しない、日本列島のみで生き残った古モンゴロイドの一群がいた、と考えていいのではと思っています。
スンダランド経由の単語、文法・・・ありだと思います。それと北欧。どうもアジアの中国よりも東部へは海の道と砂漠の道・・・つまりヒマラヤの上下を情報が行きかっている気がします。「ワープ」しているなと感じます。
Kawakatuさま、コメントありがとうございます。
確かにアジア東部には、南回り(スンダランドから北上したもの)と北回り(ヒマラヤ北部を東進したもの)の2ルートあるといわれています。
南回り北上組は、その後東進組と西進組に分かれて、中央アジア(ex.チベット)ではこの西進組と北回り組が合流したと思います。
ヨーロッパの大部分はインド・ヨーロッパ語族ですが、フィンランドとハンガリーはウラル語族といって元来アジアから出て行ったとされています。アジアの北方のアルタイ語族(モンゴル語やトルコ語)とよく似ているといわれているので、南回り北上組の西進組だと思います。
フィンランド語もハンガリー語も、その後ヨーロッパ語の影響を受けてかなり改変させられたようです。
その点日本語は、発音でも文法においてもほとんど影響を受けていないことになりますね。
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