2010年08月13日
集団を超えた、共認原理に基づく婚姻体制って過去にあるの?4 ~インセスト禁忌とは~
「互酬原理について」に引き続いて、シリーズ第4回目です。今回はレヴィ・ストロースの著書「親族の構造」から、インセスト禁忌(きんき)についてお送りします☆
インセスト禁忌?あまり、聞きなれない言葉ですね。
では、インセストタブーと言われたらどうでしょう?
「近親相姦のタブー!」
そうですね。一般的にはそう解釈されています。ところが、ところがです!レヴィ・ストロースは、このインセストタブーなる用語を、実はその著書(その自身の論理の中)では用いていないのです。
「え~?」
では、レヴィ・ストロースが、あえてインセストタブーではなく、「インセスト禁忌」としたその理由、彼の唱える婚姻の構造ついて迫ってみたいと思います。
応援よろしくお願いします
タブーか禁忌か?
インセスト・タブーという用語は、日本の文化人類学者の世界においては自然であるようです。また、社会通念的にも近親相姦のタブーとしての意味合いで認知されています。けれども、レヴィ・ストロースの「親族の基本構造」の原書は、当然フランス語で書かれているのですが、その原書の中ではレヴィ・ストロースはタブーと言う用語を用いていないことが注目されます。
フランス語には当然、タブー(tabou))と言う用語はあります。しかし、レヴィ・ストロースがあえてタブーではなく禁忌(prohibition)としているのは、フランスではこの二つをハッキリと区別しているからです。(したがって新たに新訳され再販された「親族の構造」では、日本語訳者がこの点に配慮し、なるべくそのニュアンスを感じとれるように慎重に言葉を用いて翻訳される努力をされています)。
・禁忌(prohibition)=法的禁止
・タブー(tabou))=宗教的・儀礼的禁止
つまり、レヴィ・ストロースはあくまでも、集団間における社会的規則(充足規範)としてこの構造を捉えているからだと思われます。
インセストは近親相姦ではない?!
また同様に「インセスト」(incest)という用語を、レヴィ・ストロースは「近親相姦」という、集団内・血族内における近親間の性的関係といった矮小化された概念として用いていないことも注目されます。レヴィ・ストロースにとっては、「インセスト」(incest)は=「社会的インセスト」のことを指すのであり、それは身近な集団と集団が共通の規則によって結びつき、社会を形成することなのです。
インセストタブーとインセスト禁忌は、全く異なる言葉であり概念である
つまりレヴィ・ストロースにとって「インセスト禁忌」とは、互酬贈与原理(交換原理)によって集団間で形成される社会的ルール(規則・規範)を意味します。したがって、「インセスト・タブー」という言葉=集団内の近親相姦の禁止といった閉じた意味合いは、その社会通念とともに、レヴィ・ストロースが提示する「インセスト禁忌」と180度異なるものであり、レヴィ・ストロースの論理を真っ向から対立するものであるという認識がまず必要なのです。
インセストタブーそのものへの疑問視
そもそもレヴィ・ストロースは集団内におけるインセストタブー(近親相姦の宗教的・儀礼的禁止)行為の必然説、例えば退化の危機を避ける為といった遺伝的解釈や、無意識の願望に対する安全弁として本能的嫌悪感を起こさせるという心理的・文化的解釈、あるいは、その逆に肉親ではあまりに身近で性欲を感じないとする説、太古の宗教的禁制の痕跡であるといった系統学的解釈など、あらゆる諸説に対して懐疑的であり、すべて根拠が不鮮明であり、決して納得するものではないとしています。
かの著名な心理学者フロイトが、その著書「トーテムとタブー」の中で唱えた「人類文化の黎明期に、母親に性的欲望を感じた息子たちが、ライバルである父親を殺し食したのちに、自分たちの行動に後悔して事の起こりになったまさにその女性に接する事を禁止する決まりをつくった」とする説すらも、単なる神話作りに過ぎないと一蹴しています。
しかし、事実としてインセストタブー的なるものは存在する
では、インセスト・タブー=近親相姦の(宗教的・儀礼的)禁止は事実として存在しないのか?と言う事についてですが、宗教的・儀礼的であるかはともかく、少なくとも「近親相姦の禁止」というルールは、既知のあらゆる人間社会において、形の違いこそあれ、ほぼ必ず存在しているといっていいでしょう。
つまり、肉親・血縁内(=集団内)での性的関係の完全なる自由(乱婚)制は、まったく観察されていないというのが事実なのです。当然レヴィ・ストロースもその事をはじめから深く認識しており、だからこそ『それは何故なのか?』を深く問い続けてインセスト禁忌という概念を提示するに至ったのです。
では、インセスト禁忌とは何か?
現象として、あらゆる人間社会にインセストタブー的なるものは存在する。とするならば、レヴィ・ストロースのインセスト禁忌とインセストタブーはいったい何が違うのか?をここでハッキリさせたいと思います。
・インセストタブーは、あくまでも集団内・血族内統合におけるネガティブな禁止命令としての概念である(してはならない)
それに対して、
・インセスト禁忌は、集団と集団の統合を前提としたポジティブな社会的充足規範としての概念である(そうすればうまくいく)
つまり、社会領域において始めて集団内禁忌の必要が生じ、それば自集団内で近親相姦をしてはならないという禁止規則が本質ではなく、自集団内の母親・姉妹・娘は、集団間の互酬贈与として他の集団へ嫁ぐものである。という極めて前向きであり、あくまでも集団間の友好・すなわち社会形成を目的として集団間において共認形成された、集団より上位の位相にある社会的充足統合規範であるとの考えなのです。
「近親相姦を禁じる規則というのは、自分の母、姉妹、娘を他者に与えさせる規則と言う方が正しい。すなわち典型的な贈物規則である」 レヴィ・ストロース
インセスト禁忌の必要は集団発ではなく、集団間統合発である
これは、自集団内の母親・姉妹・娘=充足存在を自集団で独占するのではなく、集団間で相互に充足存在を互酬贈与することによって、集団を超えた集団間での充足・安定(期待・応望)関係と統合力が生みだされる。という、婚姻規範の必要は集団(内)統合発ではなく、集団間統合発(社会形成発)あるという、これまでの婚姻規範の考えを大きく塗り替える理論として提示されたのでした。
「(氏族集団間の)外婚は互酬性に基づくあらゆる現象の原型で、その婚姻規則(交換体系)は集団を集団として存在することを保証する」
「女そのものが贈り物の一つ、互酬贈与でしか獲得できない贈り物のうちでも最高の贈り物にほかならない」
「インセスト禁忌と外婚は実質的に同一の規則をなしている。いずれも互酬規則である。」
「社会全体からみて,婚姻による女性の交換は,家族や親族などの集団が他の集団との紐帯をもつのに最も有効な手段であり,その機会を確保するため近親相姦や集団内の婚姻が禁じられるようになった」
レヴィ・ストロース
仮説的結論:インセスト禁忌は初めから集団を超えた共認原理の地平で成立した
レビィ・ストロースは、「インセスト禁忌が(人類の集団間における)最初の規則だった」と結論付けています。
これはつまり、インセスト禁忌の成立そのものが、はじめから集団を超えた集団間の共認原理に基づく婚姻体制として必要とされ、集団間の共認によってインセスト禁忌が成立し、集団相互の充足統合(安定・調和)の為に生み出された社会統合様式である。という、これまでの婚姻規範の常識を覆すほどの大胆な仮説であると捉えられ、結論付けることができます。
残課題:婚姻規範は集団統合発?集団間統合発?
「インセスト禁忌が最初の規則だった」
とすれば、それはそもそものこのシリーズのテーマでもあり、前提でもある
「集団を超えた、共認原理に基づく婚姻体制って過去にあるの?」
対して、
「婚姻体制とは、そもそもが集団を超えた共認原理に基づき生み出されたものである」
という、根本的な認識転換を迫るものでもあるのです。
上記のレビィ・ストロースの論理に基づく、仮説的結論を一旦正とするならば、人類史的には同類圧力が上昇する以前の孤立した単一共認集団の期待・応望関係の中では、種の存続上、近親相姦が通常自然で当然なことであり、同時に社会(集団間の統合)も存在しえず、それは婚姻規範や婚姻体制として存在したものではない。ということになります。
さてさて、人類に於ける婚姻規範・婚姻体制は集団発なのか?集団間統合発なのか?気になるその最終結論は、このシリーズの最終回まで一旦棚上げにしておきましょう 😀
では次回、シリーズ5回目、交叉イトコ婚をお楽しみに
- posted by kasahara at : 2010年08月13日 | コメント (4件)| トラックバック (0)
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comments
新年あけましておめでとうございます。
日本人は米国や西欧の国々に比べ人間の本源性や人類の共同体体質を多く残存
させていることは実感するところです。
しかし今ある残された本源性や共同体体質は可能性がある、と言うことで
縄文時代に比べればかなり少なくなっていると思います。
今後、具体的な形として、どうしたら再生できるか?
を追求してほしいものです。
犬山城
oojijisunです,青春18切符で行きます お城巡りを準備中です、参考になります。
学生時代、日本人は欧米人のように自己主張しないし、個性を活かさないからダメだと教えられた記憶があります。
一時はそんな教えが正しいと思っていましたが、実際は、なにか無理をしないとそのように出来ないことに気付きました。
縄文時代から1万年受け継がれてきた国民性は、簡単には変えられないですね。
そう思うと、白紙の状態で生まれてくる赤ん坊に、どのようにして縄文体質が受け継がれているのか、知りたくなりました。
共同体社会と人類婚姻史 | 日本人の本源性・共同体体質
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