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2010年10月01日

「本格追求シリーズ3 共同体社会に学ぶ子育て」14 近世農村の貰子、捨子

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前回の記事「本格追求シリーズ3 共同体社会に学ぶ子育て」13 江戸時代の家族形態と子育て意識の変化
http://bbs.jinruisi.net/blog/2010/09/000874.htmlに続き、江戸農村社会の子育てについて紹介します。
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江戸の農村社会において、【子返し】(嬰児殺し)と比較され【捨子】という言葉(行為)がみられます。
【捨子】とは、大きな家の門前に捨てられ、拾われ育てられる子供たちとして江戸後期に描かれていました。
どの言葉も現代的価値観で捉えると理解し難いと感じますが、当時は、飢饉がおきるたびに子を手放し、集団(共同体)として適応していくことを優先してきました(集団あっての個人!)。
藩や共同体には、捨子養育の仕組みが形成される中で、【捨子】という行為は子供につらい思いをさせたくないという集団(母親)の深い愛情を満ちた行為であると捉えられていました。
また、徳川綱吉による江戸時代の元禄期に出された多数のお触れ(法令)生類憐みの令には、【捨子】の禁止とその保護も含まれていた事実もあり、当時の子育て事情が伺い知ることができるのです。
その他、江戸初期~江戸後期にかけて【貰子】(児童労働を目的とした人身売買)という言葉(行為)がみられます。特に奥会津や播州では農業生産の労働として子供が生かされていたという記述もありました。
19世紀播州における【貰子】という行為の動機は一定の年に集中している以外は、子供の性別や年齢、貰った家族の事情には必ずしも一定の法則性が見られません。大高持ちが率先して貰ったというわけではなく、受け入れ家族も経済的に余裕のない時期の受けいれとなっています。民俗学では、この貰子の習俗については将来の労働力確保のためと考えているといわれているようですが、一石未満の小作農にとって乳幼児を貰い受けて育てることは将来の労働力確保というよりは、養育困難な事情にある子供を人々が積極的に受けて養育するという「受け入れ体制」が存在していたといった方が適切であると思います。
以上より、江戸農村社会における子育て意識について追求してきましたが、子供を集団社会の中で養育していこうとする共同体的意識が残っていたことがわかりました。
次回は、【子返し】について紹介したいと思います。

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