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2010年10月06日

「本格追求シリーズ3 共同体社会に学ぶ子育て」15 “子返し”とはなんだったのか?

「本格追求シリーズ3 共同体社会に学ぶ子育て」14 近世農村の貰子、捨子
に続いて今回は江戸中期以降頻繁に行われていた“子返し”について見ていきたいと思います。それでは早速“子返し”って何?と言うところから押さえて行きたいきましょう。

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この絵馬は、柏原白鬚神社境内にある浅間神社に奉納されたものです。産まれたばかりの我が子を殺す女性2人が彩色で描かれていますが、一方は鬼の顔をしており、そこには
「足らぬとて まひ(間引)くこころの愚かさよ 世に子宝といふをし(知)らすや」
「罪は身に むくうとしりて天より さつ(授)けたまわ(賜)る子かえ(返)しをする」
と記されており、子返しを戒める目的で奉納されたことがわかります。製作年代と作者は不明ですが、奉納者の氏名から江戸時代末期の作と考えられています。狭山市の指定文化財より

“子返し”って何?
近代的用語で言えば“間引き”=子殺し(親が子を殺す)のことです。それを江戸時代では“子返し”と言っていました。「返す」というのは、「天」に返すという意味です。当時7歳以下の子どもは神の子とされ、いつでも神にお返しする(つまり殺す)ことができるとされていまいた。
また“子返し”の実態も当時それほど珍しい行いではなかったようです。“間引き”と言うと口減らし印象があり、貧困で食えないから間引いた・・・と思っている方もいると思いますが、必ずしもそうとは限らず、一定の生活水準を保つためにも行われていました。またそれ以外にも、生まれてきた子供が奇形児や障害を持った子供であった場合等は“子返し”が行われていたようです。
親は一般に子を守るものと考えられ、民法においても子は親が扶養すべきものとされ明確な扶養の義務づけがされている現代とはエライ違いですね。
では今度は“子返し”がどんな背景によって行われてきたのか?またどんな意識をもっていたのか?を見てみましょう。これについては『子宝と子返し』(著:大田素子)からそれに纏わる内容をピックアップして紹介したいと思います。
ちなみに『子宝と子返し』は江戸時代の豪農(在郷商人)の日記から考察した内容となっています。

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●子どもに関する日記の記述
ところで、子どもについて日記に記されるのは、誕生と教育儀礼、婚約と結婚、そして病や死に関するものがほとんど全てである。まれに手習いや商いの手伝いは記されることがあるが、性格や能力など子どもの資質について記されることはほとんどない。それは、一つには藤左衛門の感心が、共同体のもめ事や稲のでき具合、商いその他、子ども以上に社会経済に向けられていたという面もあるだあろうが、やはりそれだけではない。病や死が比較的多く語られるのは、お互いに健康に生きてゆくこと自体に価値を見いだしていたからであろう。また婚約や結婚が重要であったのは、共同体の中における地位がそれによって規定されるからで、良縁を得るためにはおそらく気を使ったのであろうが、通常子どものもとの関係では穏やかな親子関係を保っていたのではないか。少なくとも子どもの性格と才能に相当な関心を払う近世後期の武士の日記などとは、明らかに異なった親子関係がそこにあったと思われる。
中略
近世後期の日記では、妻の陣痛に時間を記載したり、産婆を呼びにいった経過を記したりするものがあるのに比べると、ここで出生の記述が簡単であることことは、妻の出産に対しても比較的無頓着であることを示しているのかもしれない。また、命名も特に強調はされてはいない。
●子どもの病と死
出産が簡単にしか記されていないのに対して、子どもの死の方は死に至る過程が説明され、薬用や祈願が記され、さらに幼児死亡であっても法名が記されるなど、出生に比べて丁寧に見つめられている印象が強い。近世後期、例えば小林一茶の俳句日記に見られるような子どもの可愛がりと深い愛情は、ここには見られないが、こどもの存在感は決して小さいものではない。
●生育儀礼
子どもの成長を見つめる眼差しを示すものとして、日記の中で注目される記述は、元服や寺社詣でのような生育儀礼と、手習い、商売見習いの記述であろう。しかしこの日記はこれらの記述をふんだんに含んでいるとはいいがたく、子どもの成長に敏感な近代の親子関係、さらには子どもの資質に無頓着でない武士の親子関係などとは異なった子ども観・人間観の存在を予想させる。先に見たように、死にゆく子どもを見つめる眼差しは概して丁寧であったことから考えると、健康に生きていること自体、言い換えれば共存そのものの価値を考えるような親子関係でだったのかもしれない。
中略
籐左衛門日記には、子どもの成長を祝うような育成儀礼は登場しない。『諸国風格問状答』に報告されている乳児期の育成儀礼さえ全く記されず、全体として子どもの出生より婚姻や成人儀礼に大きな関心が寄せられている。子ども期はまだ注目されず、若い大人に期待が集中しているのだ。
子どもの死に際しては深い悲しみが表明されるけれども、近代人の感覚のように成長への可塑性に富む子どもの死だから悲しいのではなく、共生している生命が失われてゆく故に悲しんでいるように見える。
藤左衛門の日記全体の中から伝わってくるのは、彼が子どもに対して責任感と深い愛情の持ち主だったということである。したがって、この時代の子返しは、少なくとも藤左衛門のそれは、子どもに対する無関心や無責任から起こったことではない。彼は子どもの数が多くても一人一人に対してそれなりに注意と深い愛情を傾けて育てていた。嬰児殺という非常手段は、子どもに対して慈愛に富んだ父親であり、進取の精神と勇気に満ちた商人である彼の成功した人生の中で、断固として選び取られた行動だったといえよう。
●子返しの動機
藤左衛門の第九子、第十子の子返しは、占いの心理的影響や多産だった妻お鶴の健康問題など、家の継承以外の事情や心理的背景も影響していると考えられる。しかし、二男二女を得たところで第八子に留之丞と名付けたり、後妻の子を育てないなど、家の継承戦略と全く無縁ではなかった。この時代、伊南郷の農村では開墾の余地もなく、次男以下の分家への圧力がしばし高まって、本百姓が零細化する傾向にあった。人々は、子どもの数のコントロールに無関心ではいられなかったと思われる。このような状況は、子どもに対する深い愛情を持ち、かつリーダーシップを発揮できるようなひとかどの人物であった藤左衛門が、冷静に、というより情緒的には動揺したとしても断固として子返しという選択を行う背景となっていたのではないかと思われる。

上記を簡潔に要約すれば 藤左衛門の感心事(価値観)は
           
 性格や能力など子どもの資質 < 婚約や結婚 
     出産→子どもの成長 < 子どもの死
           子ども < 社会経済

となっています。要するに家の継承戦略が最大の課題としていたことが分かります。やはりこの頃(=江戸中期以降)は“子返し”は単なる口減らしの為ではないんですんね。
「本格追求シリーズ3 共同体社会に学ぶ子育て」13 江戸時代の家族形態と子育て意識の変化
の『●まとめ』では
・江戸時代の豪農は、既に農村の中でも身分が上であり、地域共同体的な要素は崩れてきている。
・市場・商品社会による私権収束と共に私有意識は高まり、親族のネットワークから、直系家族の利益へと、家族形態と家族意識が変化している。
・子育て観も、それに伴い、親族の利益を守ることから、家族の利益の守る方向へと変化し、より修業的な教育方法がとられるようになった。

とありますが、上記の“子返し”もまさにそのような社会背景(=外圧)によって行われてきたことが分かりました。

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