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2010年10月09日

ヘヤーインディアンの社会に学ぶ「同化教育」

子どもをお持ちの当ブログ読者の皆様は、子どもに何か習い事させられておられるでしょうか?
私も子どもの頃は、そろばん、習字、学習塾といった習い事をしていました。今いる子どももスイミング、サッカー、習字、学習塾に行っています。本人が行きたいというので行かせていますが、家計は火の車です。
小学生の習い事、今一番はスイミング・今後は塾に英会話教室
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幼児の習い事、男の子は「水泳」・女の子は「音楽」がトップ
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生活が豊かになってきた以降、子どもの習い事はヒートアップしてきているように思いますし、また親も『我が子のために』といろいろな習い事をさせているのだと思います。 🙄
いろいろな習い事先での新たな仲間関係を築ける(家族→学校等→習い事先)という点で、より広い社会(集団)に接し、人間関係を含めた社会性の獲得に寄与しているのでしょう。しかし学校及び習い事空間における『先生と生徒』という関係について、興味深い投稿がるいネットにありましたので、以下に引用します。
ヘヤーインディアンの社会に学ぶ「同化教育」

ヘヤーインディアンの社会では、「教える」「教えられる」と言う意識が全くない。それどころか、「だれだれから教えてもらう、習う」と言う言葉がヘヤー語=観念体系として存在していない。よって、「師弟関係」も存在しない。
ヘヤー文化の基盤には「人間が人間に対して、指示・命令できるものではない」という大前提が横たわっており、人間に対して指示を与えることの出来るものは、守護霊(=精霊信仰における精霊観念)だけであると考えられている。この為、「教えよう」「教えられよう」とする意識や観念体系が存在していないのだと考えられる。
ヘヤーの社会において、物事は人の行動を注意深く観察し、同化することで自然と身につくことであると考えられている。例えば、自分のまわりにいる友人や従兄弟や兄弟達の猟の仕方、皮のなめし方、火のつけ方、まきの割り方などをじっくり観察することで、男の子は猟の仕方を、女の子は皮のなめし方などを身につける。その同化能力は非常に高く、「子どもの文化人類学」の著者、原ひろ子女史によれば、自身が作った料理を、次の日にはヘヤーインディアンの女性が全く同じように配膳してあり、大変驚いたと言う。

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小・中学校、高等学校、大学という学校教育を受ける中で、当たり前の常識だった『先生=教える人』『生徒=教えられる人』という関係って何だったの?という素朴な疑問が湧いてきました。 🙄
例えば赤ちゃんが言葉を話すようになるのは、親から教えられたからではありません。親や周りが発する言葉を真似ることから始まります。
落語家の言い回しや職人の匠の技などは、師匠の一挙手一投足を真似て(技を盗んで)身に付くものであって、教えてできるようになるのではありません。
そのように考えると、『教える、教えられる』という関係(行為)は、早さや効率重視から発生した近代教育特有の様式だったのではないかと思われます。

引用の続き
更に着目すべきは、同化に対する不可能視の無さにある。
ヘヤー社会では、「誰かが出来ていることは、自らにも必ず出来る」と言う意識が存在している。その為、(誰かを真似て)初めての行動を行う際にも「不可能視」が介在し得ない。
原ひろ子女史は、ヘヤー社会で1962年にフィールドワークを行っているが、その際、厳しい冬を乗り越えられるか不安になり、雪の上を移動する「かんじき」の使い方を身につけるべく、夏~秋の間に皆に教えてもらえるようにお願いした。
しかし、皆、口を揃えて「こんなことは、冬が来て、雪が降って、はいてみればわかる。そして歩けばわかる」と言うのみで、誰も教えてくれなかったらしい。(その後、原ひろ子女史は必至で皆のかんじきの使い方を観察し、身につけることになった)
ヘヤーインディアンには同化に対する不可能視が無いからこそ、誰かが出来ていることに対しては、(己も)「やれば解る」「やれば出来る」となる様である。
考えてみれば、ヘヤー社会で無くても、子どもは「万能観」の固まりで、「不可能視」と言うものがない。自身の子どもを見ていても、(無謀にも)いろんなことを「(自分も)やってみる」と、大人のやることを真似てどんどんチャレンジしていく。
本来的に「同化」には「不可能視」など介在しえず、「同化するだけ」「やってみるだけ」と言うのが本質なのかもしれない。(当然同化過程における試行錯誤はあるが、それは「不可能視」ではなく、必ず出来ると思っているからこその試行錯誤と言えるだろう)
一方で、「教える」「教えてもらう」と言う意識の根っこには、本質的に「不可能視」が存在しているのではないかと感じる。相手が”出来ない”ことを前提としているからこそ、「教える」必要があり、同時に自分は”出来ない”ことを前提としているからこそ「教えてもらう」必要がある。
「教える」「教えてもらう」と言う教育観を前提とした時点で、「不可能視」が介在し、あらゆる可能性に蓋をすると言っても過言ではないかもしれない。
ヘヤーに限らず共同体社会において広く見られる”同化教育”においては「不可能視」が生じ得ないが、「教える」「教えてもらう」ことを前提とした近代教育制度の下では、子どものころから「不可能視」が刻まれる。
当然、そのような「不可能視」は外圧に対する突破力に対して大きな影響を与える。
このように考えてくると、「教える」「教えてもらう」を前提とした近代教育制度は、致命的な欠陥を孕んでいるように感じる。

学校の勉強や習い事でも新しいことにチャレンジすると、うまくできないこと(壁)が多かれ少なかれ出てきます。「僕(私)にはできない」って諦めて、できない言い訳を必死で探すことって誰しも経験してきたことではないのでしょうか。この根っ子にあるのが『不可能視』です。
でもあらゆる生物は外圧適応態であって、簡単に諦めてしまうっていうのもなんだか違和感があります。
おぼれたネズミは死ぬまでもがき続けるし、追われる草食動物は、捕食されるか、逃げ切るまで駆け続けるのみ。(「もうしんどい」と走るのをやめる生物はいない)
そのように考えると、現実を否定する『不可能視』で、いくら頭の中で考えて可能性を探しても、現実は変わらないのは当然です。
残念ながら「教える」「教えてもらう」一辺倒の近代教育制度では、同化能力を伸ばしていける土壌はないようです。
一方で身近な同化対象である父親や母親も子どもとの接点が閉鎖された家庭空間のみでは、尊敬や憧れという対象としては全くリアリティがなく表層的な存在と化しているように思われます。

ゆとり教育は、生み出された時間をどのように使うかという答えを文科省が出さず、各学校に丸投げしたため、単に学力低下となって頓挫してしまいました。この『同化教育の欠落』という半答えが与えられていれば全く違った結果になり得たように感じるのは私だけでしょうか。 8)
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