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2011年01月15日

シリーズ『共同体社会と本源の心』7~等分配ルールと平等観念の違い

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こんにちは。
今年もよろしくお願いします♪
シリーズ『共同体社会と本源の心』7回目です。
前回は“村落共同体の規範”をお送りしましたが、今回は共同体規範の具体事例です。
この図はフランス人権宣言のスローガン「自由・平等・博愛」ですが、「平等」などにおける共同体規範と近代観念との違いから、「本源の心」を見てみましょう。
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るいネットより

私権封鎖のための等分配のルールと、私権獲得のための平等観念の違い
>島の「平等」には、平等の根底に「統合」が横たわっているように感じます。そう感じるのは、私だけかも知りませんが、とにかくそう感じます。統合の大きな柱として、この「平等」を用いているように思います。平等な分配、これが統合の基本になっているのでしょう。そしてそれが、私権を封鎖する役目を果たしているのだと思います。
同じ「平等」でも、私権統合という統合形態がはっきり確立された社会の中で使用されると、これほどの欺瞞に満ちた、そして矛盾の多い観念も他にないと思いますね。早く払拭したいものです。
(「平等」の再考)
「統合」が横たわっていると感じたのは、おそらく外界からある程度孤立化され、本源的な社会構造が色濃く残っていたからではないかと思います。外界との関わりが殆ど無いとすると、そこでいう「みんな」とは、そこの島民全体、そしてその社会のことを指す事になります。その中において統合されているから、当然、島民はみんな期待に応えるべく、クジラを取りに行くし、動ける者は全てクジラの解体に当たるのでしょう。男達が先を争って船に乗っていくのは、他の人より多くの分け前を貰いたいからではなく、あくまでみんな期待に応えるため。だから収穫した肉は皆の共有物となり、当たり前のように等しく分配されているのだと思います。
統合された社会においても、個々人の私権を封鎖させる目的として、等しく分配するというルールがあってもおかしくないのかもしれません。そこでいう平等の目的は、私権(自我)の封鎖であって、自己正当化のためではないからです。
「平等」という言葉は、私権社会の中で不公平を意識するようになって顕在化した結果、生まれたと考えられます。したがって、私権社会の中で「平等、平等」と盛んに唱えられていたのは、自分の利益を確保すること、つまり私権獲得が目的でした。
島社会における私権封鎖のための等分配のルールと、私権社会における私権獲得のための「平等観念」、似ているようで実は全く正反対の性質があるのではないかと感じます。

太平洋の小さな島でのクジラの捕獲のお話ですが、かつての共同体においては「平等」という観念などなく、みんなで生産し、みんなで分かち合い、みんなで喜び感謝する、というのが当たり前だったように思います。まさに、みんなが充足するための規範として、個人の私権を封鎖するルールがみんなの共認のもとに成立していました。
翻って「自由・平等・博愛」、さらには「個人・人権・福祉・恋愛・・・」などといった近代思想は、共同体的感覚(の日本人)からすると、どうもピンと来ない。
「平等」は「分かち合い」だし、「福祉」は「みんなを守る」ことだし、「人権」は「かけがえのない仲間」であり、「恋愛」は、、、共同体社会ではすべてが集団のために存在する「みんな発」の規範であるのに対し、近代思想は集団ではなく私権存在たる「個人(第一)」を原点とした「自分発」の観念。だから、集団性の強い日本人にはピンと来ないし、最近では巷でもとんと聞かなくなりましたね。
では、その近代観念がどのように生まれたのか、その本質がなんなのか、実現論より紹介します。

ところが、性闘争→私権闘争→私権統合によって本源集団は解体されて終ったので、失われた本源価値(異性や仲間や集団との共認充足)を幻想観念化して、頭の中で共認充足するしかなくなって終った。しかも、その様な幻想観念(古代宗教や近代思想)を創り出した思想家たちは、本源価値を破壊した、本源価値の対立物たる現実を否定し、反現実or 脱現実のベクトルに貫かれた非現実の地平に、本源価値を再生する幻想観念(「神」や「人間」や「自由・平等・博愛」やそれらを具有した「個人」や、それらを実現する「民主主義」)を構築した。従って、現実否定から出発し、現実から目を背らせた上で成立している古代宗教や近代思想は、初めから現実を変革できる筈もなく、現にそれら(例えば神の世界や自由・平等・博愛を具有した個人)が実現された例しがない。
近代思想は、一方では性的自我や抜け駆け性闘争(性市場)や私権闘争(商品市場)という現実に立脚し、もう一方では本源価値風の欺瞞観念に立脚している。近代思想が観念に立脚するのは、ムキ出しの自我や性闘争のままでは共認が成立しないからである。人々に共認される為には、醜い現実を捨象し、本源風に美化しなければならない。でなければ、思想として成り立たない。しかも、顕在意識は常に醜い現実の方を捨象し、美化された欺瞞観念に収束する。
従って、その思想(欺瞞観念に収束した顕在意識)と現実(醜い自我や性闘争や私益闘争に収束した肉体存在)とは完全に断絶しており、もし思想と現実(意識と存在)を同じ地平で突き合わせれば、その思想は忽ち瓦解して終う。要するに近代思想は、一から十までその全てが人々を欺いて共認を形成する為の詐欺観念で構成されている。だから近代思想は、その全体が人々をペテンに嵌める為の詐欺思想である。

そう、近代思想はペテン。
その証拠に、何ひとつ実現された例しがなく、矛盾だらけ。要するに頭の中だけで成立する幻想なんですね。
09年のリーマンショックにより、これまでの市場主義社会は誤りではなかったかという論調が徐々にではあるが語られ始めました。ということはすなわち、これまでの市場主義社会を導いてきた近代思想もまた誤りであったということと、同じことを意味します。
私たちが「共同体社会と本源の心」をはじめ、日本人の可能性を探求する意味はここにあります。
つまり、たかが近代200年の思想に惑わされることなく、人類が500万年にわたって築いてきて、今なお心底に受け継がれている「本源の心」を拠り所として、新たな集団を、規範をもう一度築いていけばいいのだと。

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