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2011年01月13日

黄河中・下流域、長江下・中流域の新石器時代中期後半~まとめ

新石器時代前期から後期(9000年前~4000年前)にかけての黄河中流域黄河下流域長江下流域長江中流域まで見たところで、今回はとくに城址の出現を中心に4地域を比較・整理したい。(参考:宮本一夫『中国の歴史01神話から歴史へ』)
%E7%8E%89%E3%81%9D%E3%81%86.jpgアワ・キビ農耕の黄河中・下流域においては、新石器時代中期後半(5500年前頃)から集団内での階層格差が広がっていき、次第に母系制社会から父系血縁氏族を単位とした家系単位での階層差が生まれてきた。
そして集落規模における格差も現れはじめ、拠点集落とその周囲を小さな集落が取り囲むという関係が出現する。
この過程で、集落の周りに土塁を巡らせる城が構築され(最古は5300年前頃の河南省西山遺跡)、新石器時代後期(5000年前~)には城址遺跡が普遍化していく。
世襲首長制社会への移行である。
一方、稲作農耕の長江下流域においても同様に父系化と階層化は進展するが、城址遺跡は発展しなかった。
長江中流域においては長く母系社会が存続し、父系化と階層化が確認できるのは石家河文化前期(4500年前~)と遅れる。
また城址遺跡は、それより前の屈家嶺文化期(5000年前~)より一斉に花咲くように出現するが、これは洪水対策と考えられており、黄河流域のような戦闘防衛用として構築されたものではない。
※写真は長江下流域の良渚文化期の玉琮(ぎょくそう)。こちらからお借りしました。
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以下、新石器時代中期後半以降の地域社会の様子、とくに城址遺跡を見ることにする。
●黄河中流域
image20110115002.jpg黄河中流域では、新石器時代中期末に河南省鄭州市西山遺跡(5300年前~4700年前)で最も古い城址遺跡が出現して以降、新石器時代後期(5000年前~)には城址が増大していく。
とりわけ山西省陶寺遺跡は一辺1キロメートル以上と巨大で、城内は宮殿区、貴族層の住居区、一般民の居住区、手工業工房区、墓地というように社会機能に応じて区分されており、地域ブロックの中核遺跡として求心構造を持っていた。
image20110115008.jpgさらに地域ブロック間でも階層化されていたが、常に陶寺地域が覇者的な存在だったわけではなく、その後陶寺遺跡は暴力的な破壊を受け、新砦遺跡のような河南中部に覇権が移っている。
黄河中流域は、他の地域より最も早く複雑な首長制社会段階に達しており、集団間の戦闘は地域統合への道のりでもあった。
なお、陶寺遺跡は五帝神話の4番目の堯(ギョウ)の都との説がある。(右図参照)
●黄河下流域
黄河下流域においては、黄河中流域よりやや遅れて、大汶口文化後期(5000年前~)の山東省トウ州市西康留(セイコウリュウ)遺跡が最も古い城址遺跡であり、新石器時代後期後半の山東龍山文化期(4600年前~)において城址遺跡が普遍化していく。
さらに山東地区においては、城址遺跡を中心とした幾つかの集落ネットワークが存在する。より大きな城址遺跡を中心に、その周りを相対的に小型の城址遺跡が取り囲み、さらに一般の集落が散在する三層の階層構造を示している。
しかも中心的な城址遺跡には版築基壇という基壇建築が存在し、政治的な中心である可能性が高い。
image20110115004.jpg
大汶口文化後期(5000年前~)の江蘇省では被葬者の大腿骨に鏃が射込まれた殺傷人骨が存在し、山東龍山文化期(4600年前~)には、鏃である磨製石鏃や骨鏃はともに大型化あるいは重量化していく。
戦闘はあったが、それぞれのネットワークの中心的な城址遺跡の規模格差はなく、力関係は伯仲しており、征服・被征服といった血なまぐさい戦闘関係はまだなかったであろう。
●長江下流域
長江下流域は良渚文化期(5300年前~)に、祖先祭祀を行なう一族の家系墓地である墳丘墓が形成され、良渚文化中期(4700年前頃~)から首長権力者の祭壇墳丘墓へと発展する。
黄河流域のような城址遺跡は存在しないが、地域ブロックごとの首長が、より下位の首長に玉器を贈与ないし分有させる祭政システムによって同盟関係を構築していた。ただし地域ブロック間の序列化は不安定かつ流動的で、当初盟主的存在であった太湖南岸の良渚遺跡群は、良渚文化後期(4500年前頃)には力を失い、太湖北岸の常州地区に勢力が移っていく。
image20101231004.jpg
大規模な水害などの自然災害により、良渚文化は突然終焉し、文化的には洗練度の低い馬橋文化(4000年前~)に移行する。
●長江中流域
image20110115006.jpg城址遺跡が比較的古くかつまとまって出現するのが、長江中流域である。
新石器時代中期から後期にかけての屈家嶺文化段階(5000年前~)に一斉に花が咲くように出現する。
弓矢の鏃が、大渓文化(7000年前~)、屈家嶺文化(5000年前~)、石家河文化(4500年前~)と時代を経るに従い大型化し、戦闘用武器化していくが、城址構築の目的は戦闘に対する防御とは言い難く、長江流域に特徴的な洪水対策であった可能性が高い。
それは、城址遺跡の築造開始時期は屈家嶺文化期(5000年前~)が大半であり、より戦闘が激しくなったであろう石家河文化期(4500年前~)には新たに築造されるものがほとんどないこと、
城址内部は平坦面だけとは限らず、居住空間以外の水田など生産地帯を含む大規模なもので、黄河中・下流域の城址遺跡の景観とはかなり違うこと、
また屈家嶺文化期は、強力な首長権は存在しない双分制的な平等社会段階であることを、根拠とする。
実際、大渓文化後期に河川の氾濫が頻繁化していた事実は遺跡から発見されており、屈家嶺文化期に洪水という自然への畏怖のもと近隣の集団が信仰的にまとまって、城壁構築という大規模な協業を成し遂げたのであろう。

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