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2011年01月29日

シリーズ『共同体社会と本源の心』9~ヘヤーインディアンの社会に学ぶ「同化教育」

シリーズ『共同体社会と本源の心』も9回目となりました。今回は【ヘヤーインディアンの社会に学ぶ「同化教育」】です。
るいネットからの紹介投稿もいよいよ今回はで最後、次回はこれまでのまとめに入ります。

画像は(リンク)よりお借りしました。
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『ヘヤーインディアンの社会に学ぶ同化教育』(リンク」)より

 ヘヤーインディアンの社会では、「教える」「教えられる」と言う意識が全くない。それどころか、「だれだれから教えてもらう、習う」と言う言葉がヘヤー語=観念体系として存在していない。よって、「師弟関係」も存在しない。
 ヘヤー文化の基盤には「人間が人間に対して、指示・命令できるものではない」という大前提が横たわっており、人間に対して指示を与えることの出来るものは、守護霊(=精霊信仰における精霊観念)だけであると考えられている。この為、「教えよう」「教えられよう」とする意識や観念体系が存在していないのだと考えられる。
 ヘヤーの社会において、物事は人の行動を注意深く観察し、同化することで自然と身につくことであると考えられている。例えば、自分のまわりにいる友人や従兄弟や兄弟達の猟の仕方、皮のなめし方、火のつけ方、まきの割り方などをじっくり観察することで、男の子は猟の仕方を、女の子は皮のなめし方などを身につける。その同化能力は非常に高く、「子どもの文化人類学」の著者、原ひろ子女史によれば、自身が作った料理を、次の日にはヘヤーインディアンの女性が全く同じように配膳してあり、大変驚いたと言う。

 「ヘアー・インディアン」は、カナダの北西部の極北地帯から南西部にかけて先住する狩猟民です。「ヘヤー」とはウサギのことで、彼らの狩猟対象が主にこの「ヘヤー」であることからそのように呼ばれるようになったと言われています。極地の生活で食料は不安定であり、時には餓死者も出るといった苛酷な状況の中、人肉食の記録も数多く残されているなど、自然外圧は日本とは比べ物にならないくらい高いと言えます。(カナダ政府の同化政策によって、現在は伝統的な生活は破壊されつつあるようですが。)

 
【続きです】

更に着目すべきは、同化に対する不可能視の無さにある。
ヘヤー社会では、「誰かが出来ていることは、自らにも必ず出来る」と言う意識が存在している。その為、(誰かを真似て)初めての行動を行う際にも「不可能視」が介在し得ない。
原ひろ子女史は、ヘヤー社会で1962年にフィールドワークを行っているが、その際、厳しい冬を乗り越えられるか不安になり、雪の上を移動する「かんじき」の使い方を身につけるべく、夏~秋の間に皆に教えてもらえるようにお願いした。
 しかし、皆、口を揃えて「こんなことは、冬が来て、雪が降って、はいてみればわかる。そして歩けばわかる」と言うのみで、誰も教えてくれなかったらしい。(その後、原ひろ子女史は必至で皆のかんじきの使い方を観察し、身につけることになった)
ヘヤーインディアンには同化に対する不可能視が無いからこそ、誰かが出来ていることに対しては、(己も)「やれば解る」「やれば出来る」となる様である。

 私たちの感覚からすると、一見不思議な感じもしますが、常に強い自然外圧に晒されている彼らにしてみれば当たり前の感覚なのでしょう。
 もともと生物は外圧適応態であり、適応できなければ死ぬしかないのだから、「不可能視」など発生するはずがありません。
 人類も同様で、本能ではどうしようもなかった為に共認機能によって共認充足を活力源とし、過酷な外圧に適応してきたわけです。
 ですから、通常なら、どんなに失敗を繰り返しても、どうしたら実現できるか(真似できるようになるか)を考えるのみで、不可能視などに陥る暇もないはず。(リンク

【続きます】

 考えてみれば、ヘヤー社会で無くても、子どもは「万能観」の固まりで、「不可能視」と言うものがない。自身の子どもを見ていても、(無謀にも)いろんなことを「(自分も)やってみる」と、大人のやることを真似てどんんどんチャレンジしていく。
本来的に「同化」には「不可能視」など介在しえず、「同化するだけ」「やってみるだけ」と言うのが本質なのかもしれない。(当然同化過程における試行錯誤はあるが、それは「不可能視」ではなく、必ず出来ると思っているからこその試行錯誤と言えるだろう)
 一方で、「教える」「教えてもらう」と言う意識の根っこには、本質的に「不可能視」が存在しているのではないかと感じる。相手が”出来ない”ことを前提としているからこそ、「教える」必要があり、同時に自分は”出来ない”ことを前提としているからこそ「教えてもらう」必要がある。
「教える」「教えてもらう」と言う教育観を前提とした時点で、「不可能視」が介在し、あらゆる可能性に蓋をすると言っても過言ではないかもしれない。
 ヘヤーに限らず共同体社会において広く見られる”同化教育”においては「不可能視」が生じ得ないが、「教える」「教えてもらう」ことを前提とした近代教育制度の下では、子どものころから「不可能視」が刻まれる。
 当然、そのような「不可能視」は外圧に対する突破力に対して大きな影響を与える。
このように考えてくると、「教える」「教えてもらう」を前提とした近代教育制度は、致命的な欠陥を孕んでいるように感じる。

 「教える」「教えてもらう」と言う意識の根っこには、「不可能視」が存在しているというのは新鮮な気づきです。
 日本のかつての師匠と弟子も、けっして、「教える」「教えてもらう」の関係ではなく(よく、業は「盗むもの」といわれますが)、師匠とは最先端の追求者であり、弟子はそんな師匠にひたすら同化しようとしていたのです。こうした関係の中では、「不可能視」が介在する余地はないように思います。
 では、私たちは何から始めれば良いのか?
 まずは「どんな形であれ、追求し、答え(らしきもの)を出すこと」そのものに意味があるという認識転換が決定的に重要(子育てだけではなく仕事の場面でも同様の事が言える)。そして実際に、子供から出てきた疑問に答えられなくとも、一緒に追求(辞書で調べたり誰かに一緒に聞きに行ったり)して答えを出してやること。
 子供からすれば疑問の答えが正しいかどうかは重要ではなく、親とともに追求し答えが得られたということそのものが充足へとつながる。そして、その充足体験の積み重ねがその後の追求力を育んでいく。(リンク
 
 このあたりがヒントになってきそうです。

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