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2011年06月28日

シリーズ「モンゴロイドの歴史」9~中国初めての統一国家・秦王朝から遊牧部族鮮卑族が作った隋・唐王朝時代~

前回は4000年前から2800年頃前の期間の黄河流域やそれを含む中原地域の中で繰り広げられた、各部族間の覇権争いの歴史を見てきました。その期間、印欧語族の遊牧部族に西方から追い遣られたチベット族が中原地域に入り込み、一方5500年前~5000年前中央アジア(モンゴル高原)は寒冷化・乾燥化して新モンゴロイド(トルコ族・モンゴル族・ツングース族)が南下して来た影響で黄河流域・中原地域は、夏王朝(チベット族)→殷王朝(モンゴル族)→周王朝(チベット・モンゴル族の混成)と目まぐるしく征服民族が変わっていく不安定な時代であったのです。
[黄河流域の風景]
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(写真は、こちらからお借りしました。)
今回は、2220年前の秦王朝が中国初めての統一国家ですが、それ以後国家分裂を繰り返し激しい覇権闘争の期間を経て、再び中国国家が統一されて行く時代をみていきたいと思います。秦王朝は、皆さんもあの時代だ!と直ぐ思い出されるでしょう、そうです。秦の始皇帝の時代で万里の長城等で有名な時代です。思い出して頂けたでしょうか?
更に時代は進んで、隋・唐王朝と国家統一され古代中国国家の形成が出来上がったのです。隋・唐王朝も皆さんご存知ですね。遣隋使の小野妹子や遣唐使の事を昔学校で学ばれたと思います。そして、古代日本国家の建国と関わりの大きい時代の幕開けです。
以上、2220年前の秦王朝統一から1100年前の唐王朝の1100年間の中国国家の変遷です。
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【モンゴロイドの移動:秦王朝以降の中国・日本】
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【周王朝以降から漢王朝迄の国家統合】
周王朝が建国されても中原地域での統制は実現されず、秦王朝・漢王朝の国家統一迄待たねば成りませんでした。其処までの中国国家の混沌たる時代をみていきます。

続く春秋戦国時代には、江南(呉越)の倭人が難民となって朝鮮や日本へ多数漂着したが、その後の秦王朝(2200年前)の専制政治にあって、日本へ計画的に脱出してきた徐福一派は男女児童3000人、30隻の大船団で最先端の軍備と職工と穀物種を携えて、日本各地に渡来してきたとされ、この計画的な殖民が日本の弥生文化に与えた影響は大きいと思われる。
また長江の最上流からはへインドへ脱出することも可能である。よく日本語とタミル語の親近性が議論されるが、タミル人はこの時期、インド南部に脱出した倭人勢力ではないだろうか?

『’10年末なんで屋劇場レポート5~中国文明の起源』より
秦王朝はチベット系民族と云われるが定かではない。特に長江流域や黄河流域を含む中原地域は、モンゴル系民族やツングース民族そしてチベット系民族・トルコ系民族までもが入り乱れて次々に国家を形成しては他の民族に取って代わられる激しい覇権闘争を繰り返してきた。従って、秦王国や漢王国は、単族の民族で統合された国家ではなく中原地域を支配して来た混血の民族により築き上げられたのではないでしょうか?
又、春秋戦国時代から秦王朝の期間は、注目するべき事が有ります。中国史の中でも社会変化に富んだ時代で有りました。国家形態の変遷、身分制度の一部崩壊、下克上現象が見られ且つ農業や手工業の飛躍的発展が実現されると同時にその影響下で社会の有り方に深刻な問題を孕んだ時代でも有りました。それ故に、孔子を初めとして孟子や荀子などの学者が多く輩出され儒教も創出された時期でも有ります。仏教を除けば、中国の歴史の中から創出された全ての思想の原型がこの時代に萌芽したのです。それを土台にして秦王朝が、個人の私有意識をバネに生産力や武力を獲得して、他王朝を次々と制圧し中国初めての国家統一を果たしたのです。そして、徐福一派が古代日本に渡来し、弥生時代の幕開けに大きく影響した時代でも有りました。
[秦の始皇帝が作った万里の長城]
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(写真は、こちらからお借りしました。)
【中原を駆ける騎馬民:鮮卑】

日本との関係で重要なのは、遣隋使・遣唐使を送った隋や唐だが、隋も唐も漢民族の国ではなく、ツングース族の鮮卑がつくった国家である。
中国北部、黄河中・下流域に広がる大平原は、かつて「中原」とよばれていた。7000年も前にアワ・キビの栽培がはじまった穀倉地帯にして人口密集地域であり、古来、この地を制した者が中国全土を制するとされた要衝である。
ところが、2世紀になると気候の寒冷化と乾燥化が進み、農耕を中心になり立っていた中原の社会は大混乱におちいった。飢餓や疫病によって大量の流民が発生、184年には「黄巾の乱」とよばれる未曾有の農民反乱がおこっている。中国を支配していた後漢(ごかん)王朝の統治機構は分解し、地方長官や豪族が自立して争う乱世となった。この過程で、戸籍上の人口は5600万人から400万人(!)にまで激減したといわれている。
いっぽう、気候変動はモンゴル高原やチベット高原も直撃したため、困窮した遊牧民がより温暖湿潤な中原に移住してきた。3世紀末までに、その数は200万に達したらしい。
農村人口が激減して兵力不足に悩まされた地方政権が、このような遊牧民集団と同盟したり、雇い入れたりして自軍に組み込むのは自然の流れだった。たとえば、3世紀初めに華北を制した曹操(そうそう)は、匈奴(匈奴)や烏丸(うがん)などの騎馬軍団を切り札として重用している。
280年、中国は晋(しん)王朝によって統一されたが、わずか20年でふたたび内戦状態となった。この時には、実力を十分に高めていた遊牧民はもはや漢人に利用されるだけの存在に甘んじるつもりはなかった。独立を宣言した匈奴軍団はまたたく間に華北を蹂躙し、晋を滅ぼしてしまう。
これ以後、中原は遊牧民の天下となった。騎馬軍団を擁する首長たちが次々と政権をうち立てる中で、5世紀初めに鮮卑(せんぴ)族が台頭して華北を制圧、6世紀末には中国全土を統一するにいたる。
(参考)鮮卑王朝
鮮卑は、もともと中国東北部にいた遊牧民集団である。2世紀中頃、一時的にモンゴル高原を統一したが、すぐに分裂した。
晋滅亡前後の混乱期には他の遊牧民と同様に中国に入り、多くの政権をたてた。その中のひとつである北魏(ほくぎ)は5世紀初めに華北を統一し、江南を拠点とする漢人王朝と抗争をくり返した。
その後、北魏は東西に分裂するが、西の政権からおこった隋(ずい)は589年に中国全土を統一した。隋にとってかわった唐も、鮮卑系王朝である。

『鮮卑が中原を制覇することができたのは?』より
[鮮卑族が作った北魏]                   [遊牧部族の騎馬軍]
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(写真は、こちらからお借りしました。)
【 隋・唐を作った鮮卑】

その後の中国は、トルコ族・モンゴル族の混合軍とも言える東湖、柔然、匈奴、突厥、高車、丁零といった騎馬民族の南下圧力に押され続けることになるが、中でも、東湖から分かれた鮮卑はうまく中原に入り込み、漢人の漢を倒して、隋・唐を打ち立てていった。
この隋・唐の時代、日本は頻繁に遣隋使、遣唐使を派遣しており大和朝廷とのつながりも深い(ただし、隋の後の時代は鎖国)。大和朝廷を打ち立てた勢力=天孫族が扶余→初期朝鮮諸国(高句麗、百済、新羅)といったツングース族の一派であることから、鮮卑もツングース系ではないかと考えられる。何より鮮卑という名前が朝鮮北方の鮮卑山に由来していることからも、ツングースの可能性が高いが、鮮卑の元になる東湖がツングースの系譜に連なるのか、疑問な点も多く、この点は継続追求課題とする。

『’10年末なんで屋劇場レポート5~中国文明の起源』より
[遣隋使船]                          [巨大帝国の唐王朝]
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(写真は、こちらからお借りしました。)            (写真は、こちらからお借りしました。)
【東胡民族は何者?】
鮮卑族の祖先が東胡であると『三国志』や『後漢書』などの中国の史書は伝えていて、この系統は間違いが無いといわれます。
ウィキペディアによれば、『内モンゴル東部にいた民族は、春秋期より広く「東胡」と称された。「東胡」はツングースの音訳との説もあるが、一般には胡(匈奴)の東方に住していたことからの呼称といわれる。モンゴル(またはテュルク)とツングースの雑種であり、一時は匈奴を圧倒したが、その後服属した。その後裔は鳥垣、鮮卑、契丹といった民族である』といわれています。又、中国の学会では、モンゴル族を起源とする説に傾いているとも伝えられています。
そこで、この民族的系統を明瞭にしておく事が必要でしょう。

ツングース族とは、ツングース語系言語を使う民族を指すロシア語だが、その語源は古代漢語の東胡(とうこ)と説がある。現代語ではdonghu(東胡)、tonggusi(通古斯=ツングース)。ただし、ロシアでは狭義のツングースを「エベンキ」と呼ぶことから、広義のツングース族はツングース語系諸族、またはツングース系諸民族と呼んで区別している。
(中略)
三国の古代史に登場するツングース語系諸族には、「粛慎・穢・わい貊・東胡・扶余・沃沮・高句麗・百済・悒婁・勿吉・靺鞨・女真族」などがいる。

『ツングース族の概要』より

[モンゴル祖族]
「原郷」中央から南へかけ展開した集団です。いわゆる「モンゴロイド=黄色人種」とは定義が違うのでご注意を。北方では騎馬遊牧、中国に南下した集団は農耕民となりました。これも大人口となり、東-中央アジアの広域に拡散しました。中国史の主役となった血統です。
[ツングース祖族]
「原郷」から東へ放散した集団です。長く狩猟文化を維持しました。また「トナカイ飼育」文化も顕著です。モンゴル系とは混じり合い、その境目がはっきりしません。シベリア-旧満州-朝鮮半島を軸とする諸民族のソースです。

『北方モンゴロイドの拡散(ツングース族、モンゴル族、テュルク族の起源)』より
此処で云う『原郷』は、南シベリアからモンゴル高原辺りを指します。従って、モンゴル系もツングース系も原郷は同じ地域であって、両者が混血した可能性は高い民族である事は容易に想定できるのではないかと思われます。結局、東胡→鮮卑&鳥垣の系譜に繋がると考えられます。
次回は、秦王朝から脱出を図った原中国人がインド南部のタミル人化したり、日本各地に渡来し弥生文化に影響を与えていった歴史を追求していきます。

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