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2011年07月25日

■古代中国の再考~④龍山文化

◆シリーズ「古代中国の再考」の4回目です。
改めて、目次を見てみましょう。
1.「仰韶文化」:古代中国史での新石器時代は,原中国人(01,02)達の生産力が上昇して,母系共同体の「仰韶文化」を黄河の上流に興す。
2.「良渚文化」:同時期に長江上流に原中国人の「良渚文化」を興す。
3.「紅山文化」:遼河の流域(中国東北)には,新モンゴロイド(O3)が,「紅山文化」を興す
4.「龍山文化」:生産力の上昇とともに集団が大きくなり,北から黄河下流に新モンゴロイド(O3)が侵略を繰り返し,「龍山文化」は父系文化に転換。
5.「夏王朝」:部族間闘争が激しくなり,部族の強大化である国家により統合されるのが新モンゴロイド(O3)モンゴル系は西からの侵略(モンゴロイド:D1,D3)に征服されて「夏王朝」が出来る。
6.「殷王朝」:再び新モンゴロイド(03)が王朝を取り返す。
今回は引き続き上記の「龍山文化」を見ていきたいと思います。
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龍山文化は紀元前3000年頃から紀元前2000年頃、中国北部(華北)の黄河中流から下流にかけて広がる新石器時代後期の文化である。黒陶が発達したことから黒陶文化ともいう。
龍山文化は、中原龍山文化(河南龍山文化と陝西龍山文化)および山東龍山文化に分かれている。山東龍山文化は黄河下流を中心に存在した大汶口文化に続いて現れており、河南龍山文化は黄河中流に存在した仰韶文化に続いて登場している。龍山文化は黄河流域のそれまで異なった文化が栄えていた地域に広がっただけでなく、長江流域など後に漢民族の文化が栄える地域一帯に影響を及ぼした。
(Wikipedia 龍山文化 より引用)
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龍山文化とはどのような文化であったのか?
:roll:
図説中国文明史1 先史 文明への胎動から以下に抜粋引用しながら、迫ってみたいと思います。
1.東夷人の文明
約4500~4000年前、山東省と江蘇省北部において、大汶口文化より発展し古代東夷人が形成した先史文化である龍山文化が出現します。生産力は目覚ましい進歩を遂げ、土器製造業は発達し、光沢のある黒陶が最も特徴的です。さらに精緻な玉器があり、銅器精錬技術も身につけていました。堅固で巨大かつ密集した城壁を持つ城寨集落が大量に出現し、特別に豪華な大墓は以前の平等な氏族制度を破壊してしまいました。
(1)黒陶の故郷
龍山文化は土器製作に特徴があり、轆轤製作による土器が特に発達しました。轆轤による製作技術が普及し、土器製作技術は新たな発展段階に達します。土器の表面は、無文か、あるいはミガキによりなめらかな黒色を呈しており、卵殻黒陶杯は最も精緻なものです。
また仰韶文化の刻まれた記号、大汶口文化の絵画記号を経て、龍山文化の時代にはついに言語を記録する道具である真の文字が出現します。
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2.炎黄集団の活躍する中原の大地
伝説と記録によれば、中原地域は強大な勢力である黄帝と炎帝の活躍した地域でした。炎黄集団は仰韶文化後期にかなり衰退し、龍山文化期に復興して、ついに中国史上最初の王朝である夏王朝を建立します。約4500~4000年前の中原龍山文化は、その範囲が広く、中心地域は伊洛河平原にありましたが、中心地域を取り巻いて求心状に分布する構造で、中国文明の形成と発生に巨大な影響を及ぼしました。中原龍山文化の内部では、地域と文化の伝統は異なり、多くの類型に区分することができます。しかし、各地の文化の様相には統一性があり、内部だけでなく周辺の文化との関係において各地の地域性が突出すると同時に、日増しに統一性も強くなっていきました。
%E9%BE%8D%E5%B1%B1%E6%96%87%E5%8C%96%E5%88%86%E5%B8%83%E5%9B%B3.jpg(1)文化の様相の統一性
中原龍山文化は分布範囲が広大ですが、その統一性はかなりはっきりしています。たとえば土器製作では、土器の胎土器形、文様などに、一致あるいは類似する点が多くみられます。泥質黒陶の数量は灰陶にはおよばず、西に行けば行くほど少なくなり、陝西省と山西省では紅褐陶が少なくありません。無文の土器は山東龍山文化ほど発達せず、器壁表面は常に各種の文様で飾られ、縄文、藍文、方格文が基本的な文様です。器形はいずれも平底が主で、最も多い器種は各種の罐です。内モンゴル中南部は北方の文化と密接な関係がありますが、この地域の卵形甕、無文夾砂罐、直筒形器などは山西省北部、陝西省北部、河北省の西北部とも共通していて、やはり中原龍山文化の系統に属します。各地の統一的な文化の様相は、華夏集団が広範な中原地域において既にかなり安定した基礎を築いていたことを表しています。
3.父系制に伴って生まれた私有制
約4000年前の新石器時代後期になると、黄河流域と長江流域の氏族集落は相次いで父系氏族社会へと移行します。
父系氏族社会は父系氏族共同体、あるいは父系制、父権制とも呼ばれます。
最初それは父系の血縁集団で、また生産体系でもありました。集団は、生産力の増加に従い、いくつかの父系親族の共同体に分かれます。父系制は母系制に取って代わり、特に核家族と私有財産の出現によって、最終的に人類社会は公有制から私有制へと変化します。これは人類の最初の革命的な変化です。
(1)父系氏族の形成
母系氏族共同体の後期から、生産力が高まり、鋤耕農耕が発達し、犁耕農耕へ移行する場合もありました。漁撈と採集による生産は補助的なものとなり、男性の労働力は漁撈から農耕へと移ってこれが社会の生産の主力となります。また手工業の発達を早め、冶金・土器製作などの複雑な工芸は、育児や家事に煩わせることのない男性に適していて、女性は生産活動では次第に二次的な地位へと追いやられて行きます。このような地位の転化は、母系制から父系制へと取って代わるきっかけとなります。この2つの制度の交替は人類史でも最も激しい変革の1つです。
(2)貧富の文化と私有制の出現
父系氏族共同体では、男性は農業と手工業生産の主力であり、生産工具と財産の創造者でもありました。
生産が日増しに増加するに従って余剰品も増え、男性は氏族内での地位をよりあがめられるようになります。氏族の首長らは他氏族との産物の交換で、集団の余剰の財産を己のものとしたために、個人が財産を占有する現象が出現します。個人生産と商品生産が出現すると、氏族内部の貧富の差が拡大し、私有制が日ごとに強固なものとなっていきます。
(3)男性の特権
血縁を紐帯してできた父系氏族共同体は、系譜は父系に基づき、男性が氏族の首長となりました。男性は氏族内部で主導的な役割を占め、所有財産はすべて男性によって後の世代に受け継がれます。氏族共同体内での当初の統治はなお民主的で、首長は氏族の年長の男性が担当します。彼らは労働に参加し、重大な事件があれば長老を集めた氏族会議を催して判断します。氏族の首長は職に不適合な場合には、いつでも罷免されました。しかし私有財産の発生によって、氏族の財産を掌握する人物が権力を独占し、氏族の支配者となります。氏族の首長と氏族の成員とは次第に対立するようになり、階級が分化し、最終的には氏族共同体が瓦解して、国家が誕生します。
(4)婚姻の形態
当時は一夫一婦制の族外婚で、いくつかの氏族共同体で1つの集落を結成し、各氏族は集落内で通婚していました。一夫一婦制は母系氏族共同体後期の対偶婚から発展してきたものです。男性が私有財産を掌握したことから、子供を育てて財産を継承し代々伝わらせるために、男女関係が比較的安定して続く一夫一婦制が行われていました。これが父系氏族社会の重要な指標となります。ただし、夫婦の地位は平等というわけでなく、妻は単なる夫の私有財産に過ぎませんでした。
4.古国時代の村落
中原龍山文化は、いたるところで戦争が起き、城壁に囲まれた城寨集落が各地に作られた時代でした。しかし、実際はそうした城壁を持つ城寨集落は社会の上層の人物のみが居住する場所で、そうでない無数の一般の村が龍山文化時代の最も代表的な集落形態です。ここで暮らす多くの住民は当時の社会を形成する基本単位でした。
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%E8%A4%87%E5%AE%A4%E4%BD%8F%E5%B1%85%E5%9D%80.jpg(1)小家庭の構成する村
龍山文化の環状集落内の住居は大きくなく、直径3~5メートルの円形住居が一般的です。面積は小さく構造は単純ですが、炊事や睡眠のための空間をすべて備えています。このような住居と仰韶文化の長屋式あるいは大型の住居とは明らかに異なり、少人数の一夫一婦制小家族の居住に適しています。住居の付近には幼児の甕棺葬がみられ、当時の核家族の子供と考えられます。彼らは共同墓地に入れられることはなく住居の付近に埋葬され、核家族の勢力の抬頭がうかがえます。集落全体が小家族によって構成された1つの村です。初期の集落遺跡では井戸は1つしかみられませんが、これは村全体で共同利用されたもので、集落内部にいまだ公共の施設があったことを物語っています。村落は家族の上位の組織として、グループで集団活動を行う機能がなお存在していました。
(2)バランスを欠く埋葬習俗
中原龍山文化は、一般に公共墓地がみられず、副葬品もほとんどみられません。しかし、陶寺などごく一部の遺跡ではまさにこれとは反対に大型の公共墓地があるだけでなく、大型墓から精緻で美しい副葬品が大量に出土しています。
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%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%82%B4%E3%83%AD%E3%82%A4%E3%83%89%E5%8D%97%E4%B8%8B.jpg図説中国文明史1 先史 文明への胎動では、母系から父系への転換は「生産力の増加による父系親族の分派」としています。
また「個人生産、商品生産による他氏族との産物の交換により私有制が強固になった」とし、一方で「いたるところで戦争が起き、城壁に囲まれた城寨集落が各地に作られた」としており、この仮説には矛盾を孕むとともに根拠としては弱いように感じます。 :-(
いたるところで戦争が起きている状況で、個人生産、商品生産などを作り交易するのは無理があります。生産が漁撈から農耕への転換で、女性の生産活動が二次的になるとも思えません。
いたるところで起きている戦争とは、気候変動に伴うモンゴロイドの南下による掠奪闘争であり、そのような移動を伴う集団様式が母系から父系への転換になったと考える方が理に適っているように思われます。


上図は、本ブログ シリーズ「モンゴロイドの歴史」7~中国における社会統合原理の劇的な大転換~ より引用

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