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2011年07月30日

シリーズ「モンゴロイドの歴史」総集編~モンゴロイドは、どのような外圧状況に、どのように可能性収束したのか?

みなさん、こんにちは。
ついに、シリーズ「モンゴロイドの歴史」も最終回になりました。今日はこれまでの第1回~第12回までを振り振り返り、「モンゴロイドの歴史」総集編をお届けします。
 本シリーズは、次のような問題意識から始まりました。
    以下、各章のタイトルをクリックすると本文に飛びます
        図表をクリックすると大きくなります

1.人類史を追求する意義と視点
 3.11の東日本大震災と津波の想像を絶するような被害状況を見て、私たち人類が自然の力の前には如何に無力であるかを改めて思い知らされました。さらに、未だに解決の目途どころか、被害がどこまで広がるかさえ予想もつかない原発事故の有り様を見て、現在の文明が何処かおかしいのではないかと不安になった方も多いのではと思います。
 しかし、人類はこの様な自然の圧力に対し何度も絶滅の危機を迎えながらも適応してきたのです。
そこで、今回のシリーズでは、このような日本人の特質が、どのようにして形成されたのかを明らかにするために、私たちの祖先であるモンゴロイドが、「どのような外圧状況で、どのように可能性収束したのか」を、るいネットの記事やなんで屋劇場の議論をもとに整理し、さらにこれからの新しい可能性収束の方向を探りたいと考えています。
では、約5万年前、モンゴロイドの誕生からスタートです。
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2.人類の出アフリカとモンゴロイドの誕生
500万年前にアフリカ大陸で誕生した人類は、気候変動に伴う環境変化に伴いアフリカを脱出(出アフリカ)しました。出アフリカを果たした人類は、Y染色体によるDNA多型分析によると、大きくAからRまでの18の系統に分けられます。
その中で、C系統及びD・E系統そしてF~R系統の三大グループが分散して移動しました。その内C系統、F系統の人類は、約5.5~5万年前にインダス川流域まで到達します。その人々が【原モンゴロイド】です。
3.原モンゴロイドの北上

4.6万年前頃、インダス河流域に居た原モンゴロイドは、寒冷化と乾燥化によりヒマラヤ山脈を越えて北方へ新天地を求めて移動し始めます。これはこの地域がヒマラヤ山脈の影響を受けて、寒冷化すると南方が乾燥化し、北方のパミール高原の方が湿潤化するためです。こうして北方へ進出したモンゴロイドは4万年前の温暖期には動物を追ってバルハシ湖からバイカル湖へと進出しました。彼らを【北方モンゴロイド(C)】と呼ぶことします。
しかし、その後も環境は安定することなく、「寒冷化・乾燥化」「温暖化」が繰り返されることになります。
 3.3万年前からの寒冷化・乾燥化
 2.7万年前からの温暖化
 2.1万年~1.8万年前の最終氷期極寒期(-10℃)
 1.8万年~、1.5万年前~、1.35万年前~と段階的に温暖化(-2℃~+3℃)
この間は、【北方モンゴロイド(C)】は気候変動に応じてパミール高原やタリム盆地を基点に北方のシベリアに移動したり戻って来たりを繰り返しすことになります。
《3.3万年前からの寒冷化・乾燥化》では、この時期に画期的な石刃技法を獲得した【北方モンゴロイド(C)】は、大型哺乳類を追って樺太を経由して日本列島にも流入しました。また、途中で分岐した部族が、アメリカ大陸まで移動した可能性もあるようです。
しかし、【原モンゴロイド(C)】の形質を強く残している【北方モンゴロイド(C)】は、多様な交配が進む地域では後発のD,Oの方が免疫力が強いため、基本的に絶滅していった。他集団との交配の少なかった、アメリカ大陸とインドの原住民にかろうじて生き残っているという状態です。
4.南方モンゴロイドの拡散

インダス河流域に居た原モンゴロイドの一部は東方へ向かい、インド亜大陸を通って、5.0万年前までにはスンダランドに到達します。彼らはスンダランドの気候に適応し、形質が固まっていきました。彼らを【スンダ・モンゴロイド】と呼びます。南方のモンゴロイドは温暖湿潤で豊かなスンダランドを中心に、大きな移動を起こすこともなく、定着して南方に適応的な形質を強めていきました。
同様に、オーストラリアに移動し適応したモンゴロイド【オーストラロイド】や、中国南部に移動し適応したモンゴロイド【シナ・モンゴロイド】も存在していました。
しかし、1.4万年前から6千年前の温暖期には、極地の氷床が溶け出したことでスンダランドの水没が始まります。6千年前には完全に水没し、東南アジアの海岸線が現在の姿になったといわれています。この地で繁栄していた【南方モンゴロイド】は、スンダランドの縮小・水没に伴う大きな環境の変化という逆境に見舞われ、新たな可能性を求めて、6つのグループに別れ拡散していきます。
5.新しい北方適応モンゴロイド=新モンゴロイドの登場

スンダランドの水没により、拡散した6つのグループの中の1つ、O型モンゴロイドは、メコン川などの大河を伝って、チベット高原からパミール高原・タミル盆地へ北上し、そして1万年前にはアルタイ山脈~モンゴル高原に到達して北方適応し、現存する北方モンゴロイドの祖となります。ほとんどが絶滅してしまったC型の【北方モンゴロイド】と区別するために、この新しく登場した彼らを【新モンゴロイド(O3)】と呼びます。
アルタイ山脈~モンゴル高原に到達した【新モンゴロイド(O3)】はここで人口を増やし、部族としての形質を固めていきます。【新モンゴロイド(O3)】「トルコ族」「ツングース族」「モンゴル族」に分化し、その後中国に進出し、中国人の主流となっていきます。
6.モンゴロイドが北方適応形質を獲得したのはいつか?
遺跡考古学や環境考古学から、いわゆる北方的形質の獲得は北アジアへの移住の初期に起こったものではなく、もっとかなり新しく、【新モンゴロイド(O3)】以降(1万年前ごろ以降)いうことになりそうです。しかし、それでは温暖化してから獲得した傾向ということになり果たして、北方適応の結果といっていいのか、という疑問がでてきます。
なんでや劇場では、この時期、乾燥したモンゴル高原で牧畜を開始した【新モンゴロイド(O3)】が家畜に起因するウィルスに対抗するために体温維持するべく獲得した形質ではないか、とする仮説や、食生活の変化による変化ではないかとする仮説も提起されましたが、いずれも決め手に欠けるため、この点も継続追求課題となっています。
7.中国における社会統合原理の劇的な大転換
ここから中国を中心にモンゴロイドの歴史を見ていきます。

1.4万年前の温暖化により水没したスンダランドから拡散した6グループの内、
海岸沿いを江南地方から中国全域に移動したグループ(シナ・モンゴロイド×中亜モンゴロイドの混血)の【原中国人(O1・O2)】
メコン川などの大河を伝って、チベット高原からパミール高原・タミル盆地へ北上し、そしてアルタイ山脈~モンゴル高原に到達して北方適応した【新モンゴロイド(O3)】
がその主役です。

【原中国人(O1・O2)】は、長江流域や黄河流域で、母系の農耕文化を開花させていきます。一方、この時期には、【新モンゴロイド(O3)】(「トルコ族」「モンゴル族」「ツングース族」)も遊牧を営んでいたと考えられていますが、次第にモンゴル高原の【新モンゴロイド(O3)】が南下して文化的影響を与えるようになります。
5500年~5000年前は寒冷・乾燥化の時期であり、父系氏族社会への過渡期だと言われていて、黄河流域と長江流域で防御性の高い城堡が出現しています。これは【新モンゴロイド(O3)】(「トルコ族」「モンゴル族」「ツングース族」)の南下による影響及び、タリム盆地からチベット高原に進出してきた印欧語族の遊牧部族によって押し出されて、黄河上流へ進出してきた「チベット族」の影響と考えられます。
このように、1.4万年~4千年前にかけての気候変動に伴い、初期農耕文化の担い手【原中国人(O1・O2)】は、北から中国に入ってきた【新モンゴロイド(O3)】の影響を受け、牧畜文化を取り入れていきます。そして、部族間の圧力が高まったことにより、中国は共同体的母系氏族社会から私有制を伴う父系氏族社会へ大転換を遂げていきます。父系転換と私有制の強まりは、戦争圧力を生み出し、覇権争いの歴史をスタートさせることになります。
8.初期中国文明は、西方のチベット族と北方のモンゴル族の中原を巡る覇権争い

この覇権争いの結果、「中原(黄河中流・下流域で、農業には最適の土壌)」に王朝が成立します。この王朝の誕生も、再び気候が寒冷化し始めた4000年前頃に端を発します。 
モンゴル高原からカスピ海までを繋ぐ草原の道は、気候変動の影響を受けやすい地域でもある。そのため、寒冷化・乾燥化が進んで草原の道の生産力が下がると、草原の遊牧民はモンゴル高原から黄河流域に南下し、農耕民を征服・支配するという最も効果的な収奪方法を取ることになります。こうして黄河流域に誕生した国家が、【夏】→【殷】→【周】です。
このように征服部族が入れ替わる、激烈な私権闘争の様相を呈していますが、新部族外からやってきて旧王朝を滅ぼしたのではなく、支配-服属関係(いわゆる下克上)だったのです。また、この時代は、「漢字」の発明や「鉄器」による武器の形成など、王朝を統合していくための観念力や武力の発達など、大きく私権闘争へ変動している時代とも云えそうです。 初期中国文明は、西方の「チベット族」と北方の「モンゴル族」の中原を巡る覇権争いだったということができそうです。
9.中国初めての統一国家・秦王朝から遊牧部族鮮卑族が作った隋・唐王朝時代

続く春秋戦国時代には、江南(呉越)の倭人(【原中国人(O2)】)が難民となって朝鮮や日本へ多数漂着しましたが、その後の秦王朝(2200年前)の専制政治にあって、日本へ計画的に脱出してきた徐福一派は男女児童3000人、30隻の大船団で最先端の軍備と職工と穀物種を携えて、日本各地に渡来してきたとされ、この計画的な殖民が日本の弥生文化に与えた影響は大きいと思われます。
その後の中国は、「トルコ族」「モンゴル族」の混合軍とも言える東湖、柔然、匈奴、突厥、高車、丁零といった騎馬民族の南下圧力に押され続けることになりますが、中でも、東湖から分かれた鮮卑はうまく中原に入り込み、漢人の漢を倒して、隋・唐を打ち立てていきました。
10.タミル人と弥生人は秦王朝から脱出を図った原中国人の末裔?
さて、秦王朝(2200年前)の時代、徐福一派が日本へ計画的に脱出しましたが、一方、長江の最上流からはへインドへ脱出することも可能です。よく日本語とタミル語の親近性が議論されますが、タミル人はこの時期、インド南部に脱出した倭人(【原中国人(O2)】)勢力ではないでしょうか?
では、なぜ日本と南インドにほぼ同時代、共通する文化が存在するのか?
福岡の伊藤俊幸さんのサイト「日本人の起源」で、この問題に対する有力な仮説を見つけたので紹介します。

 
3,000年前長江中・下流域に、先に大野が挙げた5項目の文化を包含した集団がいた。彼らは、黄河流域から南下してきた集団との戦いに敗れ、一部は東に、一部は西に南に逃れた。 東に逃れたうちの一派は北部九州にたどり着き、弥生前期後半に甕棺墓の風習や弥生文化の多くを広めることになった。一方西に逃れた一派は、雲南センターを経由して更に西に進みドラヴィダ族のタミル集団に稲作とやはり甕棺墓などの弥生文化に並行する文化をもたらした。 この結果、日本列島と南インド地方には、あたかも南インドの文化や言語が日本列島に伝来したかのごとく、同じ文化や言語がほとんど同時期に平行して存在するという状態を現出した。

 なるほどタミールから遥々日本に来たというより、長江の住民の一部が東へ逃げ日本へ、別の一団が西へ逃げてインドへたどり着き文化を伝えたという伊藤俊幸氏の仮説の方が説得力がありますね。
11.縄文人は南方モンゴロイドの気質を温存している
ここからは日本人の起源に迫ります。

日本列島には年代に応じて様々な人種が上陸しています。まず、注目すべきは、日本には様々なタイプの遺伝子タイプが現在も共に生き残って共存共栄しているということだと思います。主力は【南方モンゴロイド】の流れを汲むD2ですが、【原中国人】の流れを汲むO1、O2【新モンゴロイド】O3もいますし、【原モンゴロイド】に近いC1もいれば、現在のシベリアに多く存在するC3もいます。まさに人種の坩堝であり、ユーラシア大陸の最東端という地理的条件もありますが、共存共栄しているそのあり様は、受け入れ体質で、共同性が強く私有意識が少なく、母系社会のまま、源郷スンダランドで形成され【南方モンゴロイド】の気質を強く残しているためだといえるのでしょう。
厳しい北方適応により私有制を伴う父系氏族社会へと移行し、牧畜からの略奪性を持つ、現代の中国の大半をしめる【新モンゴロイド(O3)】は1900年前まで入ってきていません。従って、縄文人の主流は、共同体意識の強く温和な“南方モンゴロイド気質”であるといっていいでしょう。

また、て日本人の起源と関連する12.日本語はどの様に成立したか?につては次のように考えられます。
よく語彙は南方系、文法は北方系とされます。つまり、基礎的語彙は、ポリネシア語等、南方言語との親近性が高いが、文法は動詞が後に来る、膠着語の文法になっている(助詞、助動詞の存在)などの形態から日本語は北方のアルタイ語族に分類されています。
これは、『南方系から北方系へ言語は変化』で展開されているように、日本語は南方系の言語が元に成っているといって良さそうです。そして、”文法“は、その時の支配部族によって人為的・強制的に変化するとすれば、1900年前に日本に渡来し支配部族となった【新モンゴロイド(O3)】よってアルタイ語(北方系)が持ち込まれ、「南方系言語を母体して後発の北方系の言語が混合した複合言語」に成った。従って、日本人の源流は【南方モンゴロイド】の可能性が高いといえるかもしれません。
いずれにしても、日本は動植物も生物多様性に富んでおり、南北に長く四季の変化にとんだ、その豊かな環境が、多様な民族の共存共栄を可能としているのではないでしょうか。この多様性は日本の可能性でもあると言えるではないでしょうか。また遺伝子的に多様な人々が交わることが、より高い適応可能性に向けて変化していく可能性の基盤をなしているという点も日本人の可能性といえるでしょう。



以上、シリーズ「モンゴロイドの歴史」総集編でした。もし「もっと知りたい!」と思っていただけたのなら、ぜひ本文をお読みください。
それでは次のシリーズにもご期待下さい。ありがとうございました。

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何をどう言おうが、こんなとこでしかグダグダ言えない粘着アンチよりは余程マシだから。

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