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2011年07月06日

シリーズ「モンゴロイドの歴史」10~~タミル人と弥生人は秦王朝から脱出を図った原中国人の末裔?~~

 前回は、春秋戦国時代の混乱を経て、中国初めての統一国家・秦王朝の成立から遊牧部族鮮卑族が作った隋・唐王朝の時代を見てきました。
 今回は、中国初の統一国家秦の成立の過程で、脱出した原中国人について考察します。 

 続く春秋戦国時代には、江南(呉越)の倭人が難民となって朝鮮や日本へ多数漂着したが、その後の秦王朝(2200年前)の専制政治にあって、日本へ計画的に脱出してきた徐福一派は男女児童3000人、30隻の大船団で最先端の軍備と職工と穀物種を携えて、日本各地に渡来してきたとされ、この計画的な殖民が日本の弥生文化に与えた影響は大きいと思われる。
また長江の最上流からはへインドへ脱出することも可能である。よく日本語とタミル語の親近性が議論されるが、タミル人はこの時期、インド南部に脱出した倭人勢力ではないだろうか『’10年末なんで屋劇場レポート5~中国文明の起源』より


画像はこちらからお借りしました。
以下は、これまでの記事のバックナンバーです。
1.人類史を追求する意義と視点
2.人類の出アフリカとモンゴロイドの誕生
3.原モンゴロイドの北上
4.南方モンゴロイドの拡散
5.新しい北方適応モンゴロイド=新モンゴロイドの登場
6.モンゴロイドが北方適応形質を獲得したのはいつか?
7.中国における社会統合原理の劇的な大転換
 
8.~初期中国文明は、西方のチベット族と北方のモンゴル族の中原を巡る覇権争い~
9.~中国初めての統一国家・秦王朝から遊牧部族鮮卑族が作った隋・唐王朝時代~
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■「日本語とタミル語の親近性」と言えば、大野晋の「日本語・タミル語同系説」が有名ですが、南インドのタミル地方から遥々7,000キロを越えて伝来したというのは、雄大過ぎて批判も多いようです。
 福岡の伊藤俊幸さんのサイト「日本人の起源」で、この問題に対する有力な仮説を見つけたので紹介します。

 大野によると、言語学だけにとどまらず“南インドの文化と弥生文化”がパラレルに展開していたといいます。
 なんと南インドの巨石時代と日本の弥生時代は3000年前、同時期に始まり、下図の青枠で囲んだ5項目すなわち、
 ①粟作・稲作の農耕が行われていた。
 ②墳丘墓・土壙墓・箱式石棺に加え、支石墓や甕棺墓まで存在する。
 ③土器に多種類の同じグラフィティ(考古学用語で、壁・土器などに刻まれた古代の絵画や文字)が彫りこまれている。
 ④青銅器・鉄器が同時に使われていた。
 ⑤機織が始まった。
が平行して存在したのです。

●なぜ日本と南インドにほぼ同時代、共通する文化が存在するのか。

 3,000年前長江中・下流域に、先に大野が挙げた5項目の文化を包含した集団がいた。
彼らは、黄河流域から南下してきた集団との戦いに敗れ、一部は東に、一部は西に南に逃れた。 東に逃れたうちの一派は北部九州にたどり着き、弥生前期後半に甕棺墓の風習や弥生文化の多くを広めることになった。
 一方西に逃れた一派は、雲南センターを経由して更に西に進みドラヴィダ族のタミル集団に稲作とやはり甕棺墓などの弥生文化に並行する文化をもたらした。 この結果、日本列島と南インド地方には、あたかも南インドの文化や言語が日本列島に伝来したかのごとく、同じ文化や言語がほとんど同時期に平行して存在するという状態を現出した。  タミル語とミッシングリンク

 なるほどタミールから遥々日本に来たというより、長江の住民の一部が東へ逃げ日本へ、別の一団が西へ逃げてインドへたどり着き文化を伝えたという伊藤俊幸氏の仮説の方が説得力がありますね。
■そして日本には、長江から徐福一派が計画的に大量に脱出してきたため、弥生文化に大きな影響を与えました。
画像はこちらからお借りしました。

徐福が日本に携えた文化は多方面で、単に物質文化のみならず精神文明もある。『史記』「准南衡山(わいなんこうざん)列伝」の記載に、「男女三千人、五穀の種および百工を派遣して行かしめる。徐福、平原広沢(へいげんこうたく)を得て、王として止まりて帰らず」とある。五穀とは、各種食料品のことであり、また百工とは、各種手工業(職人)を含むものである。
 考古資料から見ると、日本の原始農業および手工業は、ほとんど中国の影響を受けている。日本の古代の服装は、戦国から秦代の陶太桶(とうたいよう)に類似している。
 日本の弥生時代、前中期の出土品の銅鏃(やじり)、剣、鏡などの銅器、さらに壷(つぼ)、器(き)(日本では三宝という器)などに至るまで、これらは山東半島で発掘できる。ただ、その形は膠東(しやんとん)半島(山東半島)出土品のうちで、西周、春秋時代の銅鐸(どうたく)、鐘(しよう)などに近い。
 このことから、日本の銅鐸文化はこの基礎の上にでき上り、装飾様式のうえで日本で改良を加えたとみるべきである(『東アジアと日本』研究発表参考図録、日本考古学協会、1985年)。
 日本の富士山下で発掘された秦字(しんじ)金印は、徐福が遺留(いりゆう)したものである可能性が極めて高い。また日本の造船は徐福時代から始まる徐福がもたらした五穀の種と先進的な生産工具技術は、日本社会に農耕経済および農業の発展をもたらし、階級的生産を行わせるようになる。これにより、日本は徐福文化、東渡の以後、すなわち縄文時代末期及び弥生文化初期に、階級社会に入り始めた。
 日本最初の哲学は神道学である。神仙ならびに道学は、日本で最も古い思想体系で、儒教および仏教は、これ以後に伝来したものである。その他、医学、薬学、占易(せんい)学、煉丹学、古詩、歌、楽器、舞踏(ぶとう)などが、一度に渡来した。徐福文化の東渡は、日本社会の変革に大きな影響を及ぼした。これは歴史的事実である97)。と云い、徐福が日本列島に伝えた文明・文化の大きさを推測している。
 秦に併合された徐福の故地・斉は、長江(揚子江)流域で稲作発祥の地であり、優れた稲の品種や水田稲作がすでに発達していたであろう。渡海にあたって、「五穀の種を携えた」とあることから、日本列島各地に、優れた稲や大豆等の種と栽培技術を持ち込んで、水田稲作の基盤をつくったものと推定される。
 鹿児島大学農学部の岡本嘉六教授は「徐福伝説と稲の道」で、徐福が運んだ五穀に新しい水稲品種があったとしても不思議でない。新天地を開拓する上で主食の米を確保することが何よりも先決であろう。この点は多くの徐福論で一致した認識であるという。
(中略)
さらに、紀州熊野や土佐(高知)で、古くから盛んだった鯨の捕獲に、綱のついた手銛や連発銃が使われた。徐福一族が大陸を最後に出航するさいに連弩(連射できる強弓)と射手(弓職人)を連れていたことに始まるのではないかとみられる。
 古くから捕鯨の盛んだった新宮市近辺の太地町や土佐(高知)、安房(千葉)、そして西海各地に徐福伝承が重なるのは偶然のことではなかろう。新宮市の伝説では、「徐福らは土地を拓き、農耕、漁法、捕鯨、紙すき等の技術をこの地に伝えた」と伝承されている。徐福一行がもたらした水田稲作と弥生文明より

 二千二百年前、徐福一行が日本にもたらした技術や文化は、進んだ水田稲作の技術の他に、埴輪に見られる古代の服装や銅鐸、神道、漁法や紙漉き、薬学、楽器にまで及んでいる体系的なものだったようです。
 次回は、これまで見てきたモンゴロイドの歴史を踏まえて、縄文人の起源について考えてみたいと思います。

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