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2012年08月17日

人は集団の中で育つ

みなさん、お盆ということで、親族集まって大人数で過ごされるかたも多いのではないでしょうか?
子どもたちは、たくさんの大人や子どもたちに囲まれて遊び、大人もそれを見て自然と笑みがこぼれてしまうことだと思います。
都市化・核家族化が進み、今では田舎へ帰ったときくらいしか見られない光景となりましたが、実はこのような光景は村落共同体が残っていた時代では当たり前のことでした。
今回は、そんな日本でもつい最近まで見られた「集団の中での子育て」に焦点を当てたいと思います。
まずは、白川郷の事例から見てみましょう。
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画像はこちらからお借りしました→リンク

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飛騨白川郷の大家族の家々では、一軒の家の縁側に、エズコ、エズメなどと呼ばれる藁でつくった入れ物が六つも七つも並べてあり、その容器に赤んぼうたちを入れて、母親たちは田畑に出かけた。赤んぼのほうは母親の帰りを待っている。
仕事を終えて家に帰ってきた母親は、まず泣いている赤んぼに乳を飲ませる。それは誰の子でも差し支えない。その赤んぼ満腹して泣きやみ、まだ乳が出る場合には自分の子に飲ませる。だが、前の子に充分飲ませるために、自分の子が飲み足りないことがある。すると次にやってきた母親に自分の子供を渡して、乳を飲ませてくれと頼み、また働きに出かけていく、といったふうであった。
この話は真の共同生活を確保するためには、女たちの育児の共同性にまで及ばないとならぬことを示唆している。子供が生まれた場合、母と子の強固な紐帯が生まれて、他者との連帯を脅かすようになる。白川郷の場合、それがたくみに抑止されている。
るいネット『共同体では、子供はみんなで育てる。』より

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現代の親子関係は、【自分の子ども】⇔【私の親】と非常に限定的で、子育ても専ら両親が行うものとなっていますが、村落共同体では子供たちをみんなで育てるという意識がありました。
母親が自分の子以外に乳を飲ませるという事実は、現代では想像できず驚きです。
さらに、その意識は「親」と「子」という呼び方にも表れています。

日本の農村の半分以上は親類のことをオヤコと呼んでいた。オヤコやイトコのコは家の子のコである。家の子は労働単位であり、これを指揮するのがオヤであった。そのオヤは共同体の作業の頭であった。本物の親よりも長男のことをオヤカタと呼ぶ方言が広く知られているが、それは総領が労働の頭としての機能をもつ名残りであった。親類をオヤコと呼ぶのは、労働のための共同体が今日よりはるかに強大であったことを示している。現在のように家族の父母に限ってオヤと呼ぶことは、かなり新しい現象である。
るいネット『オヤとコ(柳田民俗学から)』より

また、オヤには色んなオヤがいたこともわかります。
【フスツナギウヤ】臍の緒を切ってくれた産婆さん(コズエババ)が、生児をこの世の人として取りあげてくれた取りあげ親になる。
【乳親】生児が乳を求めるようになっても、生母の乳汁の出がおくれることがあるため、他人の乳をふくませることがあることから始まったものとも考えられるが、いち早く社会の仲間とのつながりをもたせる共食の儀礼を行わなければならないという観念のあらわれと思われる。この際、男の子は女児の母親の乳を、女の子は男児の母親の乳をもらうことになっている。
【拾い親】子供が弱いときに、橋のたもとや道の辻に捨てて、ナゲコ・辻ウリなどといって、子福者にもらってもらい、名を新しくつけて生みの親がもらい返して育てる風習。
【ナツケ親】名は生命の象徴であり、名を与える人は他人でも生命の生みの親であるというほど、名は尊いものと考えられており、出生時の名づけ親と成年式の改名の名づけ親がある。
【宿親】褌祝いなどの成年式をすませた若者・娘が婚姻生活に入るまでに宿に集まって、ヨナベをしたり、とまったりする宿の生活がある。このとき、若者や娘に室を提供した家の主人で、宿子の親として婚姻の助力につとめる。地方により、トマリコの年長者を宿親方という。
現在では血縁関係における核家族集団を基本としていますが、村落では血縁、非血縁こだわらず一つの集団を形成しており、それを構成する人数は核家族に比べてはるかに多いとわかります。
今では核家族の中に限って「親」と「子」は使われていますが、村落共同体では大人たちみんなが「親」であり、こどもたちみんなが「子」だったのです。
村落共同体では、「親子」の対象は父、母、子以外にも広がっていたんですね。
それでは、村落共同体のような集団内で、子どもはどのように成長していくのでしょうか?
現代の例ですが、集団の中で育っていく1歳の息子をみて思った父親の感想を見てみましょう。

1歳6ヶ月になる息子を見ていて最近強く感じるのは、「集団の中にいるほど成長が早い」と言うことです。
例えば、それまで全く歩けなかったのが親戚の集まる場で数日過ごす間に歩き始めた、「あーあー」などの喃語しか話せなかったのが急に語彙が増えて明確に意味をもった言葉を話し始めた、いろいろな道具を使えるようになった等です。
人間は、周囲に同化する中で成長していくので、同化対象が増えるほどに成長速度が早くなるのでしょう。周囲からの「成長期待」が多く掛けられることも、影響していると感じます。
このような現象事実を目の当たりにする中で、現在の核家族は「人間の成長の場」としても、問題があると感じ始めました。
核家族と言う”カタワな集団”の中では、同化対象は極めて限定的になるからです。
2~3歳ともなれば、幼稚園に通ったりする中で、集団生活を経験するようになりますが、それでは”既に遅い”と感じます。
子供を見ていて思うのは、乳児期から幼児に成長するまでの過程が極めて重要であると言うこと。乳児期は観念機能が全く備わっておらず、共認機能による同化行為を通して急激に成長していきます。この時期は、表情や言葉による反応充足に最も鋭敏な時期とも言え、常に周囲の反応を羅針盤に成長していく様が見て取れます。
一般的に「社会性は幼児期に集団生活を経験する中で育まれる」と言われますが、乳児期から既に社会性の獲得(=同化能力・対象化能力の獲得)過程は始まっていると言えるでしょう。
るいネット『人は集団の中で育つ』より

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乳児は、言葉をまだ理解していなくても、相手の表情や感情に同化して成長していく存在です。上記のように同化できる対象がたくさんいる集団の中では、乳児にとっても同化能力がどんどん育まれ、同化によって覚える事柄も多く、成長も早いのでしょう。
またそのような子どもの成長は、大人たちにとっても充足、活力源となり、ますますたくさんの大人たちに可愛がられ、成長していくのだと思います。
成長とは同化能力⇒観念能力そのものです。
当ブログでは、婚姻史を通じて共同体のカタチを学んでいます。歴史に学ぶにつれ、共同体の再生は、ますます次代に求められるのではないかと確信しています。みなさんも、みんながたくさん集まったときは、自分の子ども、相手の子どもかまわず、みんなの子どもとしてたくさん可愛がってみてください!

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