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2012年08月16日

充足を分かち合う場と仲間が、性を再生していく


「日本婚姻史に学ぶ共同体のカタチ シリーズ」では、「人類にとってセックスとは単に子孫を残すためのものだけではなく、心の充足や安心感を得るためのもの」だったことを見てきました。
ex) 日本婚姻史に学ぶ共同体のカタチ シリーズ2 (1)「目交い~見つめあう充足の性」
ところで、るいネットに気になる記事を見つけました。
現代では性行為には既に<充足>という現象、概念がなくなってしまっており、そのことが、多くの問題の根底に潜んでいる」というのです。

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NHKのETV 2000 揺れる男と女( NHK「性についての実態調査(1999年末実施)」より)という番組で、「自分にとってのセックスの意味」という項目で、男女の性意識の違いを示していました。
男性%  女性%
愛情表現          78    70
ふれあい          45    48
やすらぎ          25    18
子供を作るための行為 35    35
快楽             44    14
ストレス解消        18     7
義務              4    14
征服欲を満たすもの    5    0.9
不快・苦痛         0.4    4
(複数回答)
この数値、色々なことが見えてきます。
その中で前提条件の提示での問題点を取り上げてみます。
アンケートを行う場合、設問・回答項目自体に適切な概念の設定がなされている必要があります。そうでないと、設問・回答項目の内容によっては、アンケートの結果を誘導してしまう危険性があるのです。
この例でみると、性行為の目的には、最も基本的で重要な概念であるはずの<充足>という項目がないことが分かります。この項目がないということは、性行為には既に<充足>という現象、概念がなくなってしまっているのかという問題に行き当たります。

この調査は、初の科学的大規模調査と銘打っているのですが、企画・制作者自身に、セックスとは何かというはっきりした概念がないことを示唆しています。スタート時点で、すでに科学的姿勢を失っているというしかありません。
ここで言いたいことは、現在の性行為、そこには、充足の概念も現象も存在しないという事実に注目しなければならないということです。
性的トラブルの目に見えない原因には、性的快感の不足、欠如つまり<性充足>の欠如があると考えられます。性行為における<充足>の欠如が、多くの性問題の根底に潜んでいることを意識すると、これまで見えなかったことが、色々見えてくるはずです。何故、<性充足>が欠如してしまったか、それを考えることが、今必要なのではないかと思います。 「性充足は何処へ行った?」高樋昇さん

この「現代では、性行為には既に<充足>という現象、概念がなくなってしまっており、そのことが、多くの問題の根底に潜んでいる」という指摘には、色々と考えさせられます。
そして、なぜ<性充足>が消えてしまったかという答えもるいネットにありました。

日本の婚姻史を調べてみると、集団や社会から切り離された婚姻や性関係は、ほんのこの50年くらいしかなかったようだ。
まず、庶民の生活の中で、縄文時代から昭和10年から30年頃まで受け継がれてきた、夜這い婚などの集団婚。それらは、村単位で性充足を高めるシステムで、男女老若既未婚をとわず、性の役割が与えられた。
子育ても、誰の子であろうと、娘の親が育てるというように、村の規範の中で育てられた。決して個人課題ではない。また、性や子育て規範を共有する単位(村)と、生産にかかわる規範を共有する単位(村)は一致していた。
このように、性や婚姻は社会とつながっていて、性自体が集団維持の課題のひとつであった。それゆえ、性をみんなの期待として、肯定的に捉えていた
次に、貴族や上位層の武士は、父系制の一夫多妻・一夫一婦制をとるが、基本的には政略結婚である。結婚は個人の課題という現代の感覚からすると、無理やり嫁がされてかわいそう、ということになるが、おおきな間違いだと思う。
私権社会での集団維持という歪んだ側面をもつことは否めないが、明らかに集団維持のための婚姻である。それは、採集時代の
>~ここで改めて、部族としての統合力を高めるために、氏族内の兄妹婚を禁止し、(部族内かつ他氏族の兄たちと妹たち=)従兄たちと従妹たちとの婚姻を規範とした。~という具合です。
>ここで私が驚いたのは、採取時代の人類は、男女の婚姻関係・性関係が、“集団統合上の重要課題である”ことを、ごく当たり前のように認識していたと思われることです。
と基本的には同じである。そして、貴族の娘も、いい家柄に嫁げるように、家庭教師を招いて、教養を身につけるのが、役割であった。娘自身も教養あるおしとやかな女になることを、目指していたのである。ちなみに清少納言や紫式部は、上記の家庭教師だった。
そして、昭和の30年から45年くらいまでの婚姻制度も、基本的には家という基盤を背後に持ちながら、恋愛結婚という形をとった。この源流は、武士や貴族の婚姻制度にある。かなり社会との関係は薄れるが、まだつながりを保っていた時代だと思う。
このように、この50年を除けば、性は社会とつながっており、衰弱することはなかった。そして現在、まったく社会とつながりを失い、当人同士以外だれの期待も受けない性が始めて登場した。そのときから、性は衰弱し続けている
再生のためには、社会の中でみんなに期待される『性』が役割として再認識される必要がある。そのためには、性も生産も包摂した新しい本源集団の再生不可欠になる婚姻が社会と切り離されて50年も経ってない


社会とのつながりを失い、当人同士以外だれの期待も受けない性」という指摘は耳が痛いですね。
「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立する」という日本国憲法第24条は、GHQが、日本の「家」制度を否定し、家族関係形成の自由・男女平等の理念を取り入れることを目的として作成したそうです。
そのときから性の衰弱が始まったといえそうです。
しかし、るいネットには、現在の閉塞した男女関係を突破する新しい可能性を示す記事もありました。

 現代の性は、彼氏彼女や夫婦といった一対の関係の中だけで交されるものです。だから、その充足を一対関係の中で話す(確かめ合う)ことはあっても、他の人にその充足を話すことには抵抗感が出るのだと思います。周りに話しても、皆の充足に繋がるような話しにはならないだろうな、と。一対の中で交される性の充足と、皆との充足というのはどうも別世界という意識です。とりわけ性の充足が、自我・独占の性充足ならばなおさらです。
ただ、本当に性の話し全てが皆の充足に繋がらないかというと、実はそうでもないのかなと思うこともあります。女性を想いながら導いている男性の性の話しや、照れながらも相手に委ね心を開き充たされていく性の様子や、男・女に対して感謝の想いが高まり涙するような性の充足など・・・これらの性の話しは、当人だけでなく聞いている周りの充足にも繋がります。きっとこの時の性の充足は、共認充足の性なのだと思います。
そんな話しを仲間とするようになり、そしてその話しで周りが充足するのを感じるにつれて、性の充足は限られた関係の中での充足ではなく、周りの充足にも繋がるものだという事がわかってきました。すると、だんだんと性の話しもオープンにすることができるようになってきました。そして、もっと皆と充足しようと思うほどに性の充足機会も増え、それまでセックスレスで閉塞していた関係も、変化が見られるようになりました。
セックスレスは、オスメスの生物原理から見ても、性の活力・充足を最大の活力源にしていた人類史から見ても異常事態です。しかし、元々性は皆に開かれた日常の充足そのものであり、性の充足=皆の充足でした。性の充足が共認充足であることを知り、その充足を分かち合える仲間がいることが、性の再生に繋がるのではないか。そんな事を婚姻史を勉強するなかで思う今日この頃です。共認充足の性になれば、セックスレスはなくなっていく

先日の記事 「縄文の源流をタヒチにみる ~性は日常・性は充足~」 では「セックスは、みずから行うものだけでなく、その話に耳を傾ける人々にも、最大の喜びを与えてくれるのである。」というタヒチの事例を紹介しました。
私たち現代の日本人も、まず「性の充足が共認充足であることを知り、その充足を分かち合い期待を掛け合えるような場と仲間」を作っていくことが、性を再生していく第一歩になっていくのだと思います。
この共同体社会と人類婚姻史ブログもそんな<性の充足を皆で共有できるような場>の一つにしていきたいと考えています。
これからもよろしくお願いします。

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