2007年07月20日
日本婚姻史9 経営所婿取婚~平安(末)~
日本婚姻史8 純婿取婚~平安(中)~のつづき。いよいよ婚所が妻家を離れて女系排除の動きが出てきます。そして夫宅へ妻を迎え入れてもよいという考え方さえ生じはじめます。
経営所婿取婚とは
経営所の語は、寛治(11世紀)白河院時代から保延(12世紀)鳥羽院時代にみられる。経営とは婚主による婚礼の執行をいい、経営所とは婚礼の場所のこと。これまでは婚主が自家で婿取婚礼を執行したのでことさら経営所の語を用いる必要はなかったが、この期になると別の所を借り受けて婚礼の場所とするようになったので、その場所を経営所と呼ぶようになった。
妻方の父(または後見者)が、自分の本居以外のところに経営所を特設し、婿取りの式と仮居した後、永住の新居に移るが、ともに妻方の沙汰であることを原則とする。ただしこれ以外にも種々の様式があり、経営所を夫の沙汰とし新居を妻家の沙汰とするものや、経営所と新居を兼ねた便宜型もあり、結局便宜型が普及した。こうして婚姻と新居が不離のものとなり、家族は単婚型となった。
経営所婿取婚とは、家族から女系を排除する方向にあることが伺える。ただまだ完全に排除しきった形態ではなく、経営所も新居も、妻方の本宅の一部分か別宅として観念された。
それでも本宅での婿取婚でなくなると、親夫婦と娘夫婦は同居せず(各家が単婚世帯となり)、親の本居を娘夫婦が相続する俗もなくなる。このことは女系型家族と家の女系伝領の俗を、形の上では全滅させるところまでおしつめたことを意味する。
そうなると、婿取婚が正式であることに変わりないが、単婚の線さえ崩さないなら、夫個人の持ち家なり住居なりへ、妻を迎え入れてもよいという考え方が生じてくるが、それでもなお女が男の「家族の中」に入る嫁取婚になるのには、まだ2世紀余の年月が必要なのである。
武家の台頭と家父長婚の萌芽
この時期は、長者層(主に名主層)が武家化し、院政とからんで台頭し、同士討ちをし、その覇者が院政を組み敷くに至る過程であり、武家は戦闘者としての立場で子族を結集し、婚姻にも族制にも封鎖的な方向を指向する。婿取婚を保っていたが、略奪、召上、進上等の例外婚を併発し、棟梁の本館を中心に子族軒をならべて住んだ。
こうした武家は、すでに時代の中軸となりつつあり、従来の原始婚体制はぜんじ崩壊し、家父長婚の萌芽が表面化しつつあった。
息子の父や君主の登場
婚所が妻家から経営所に変わったことが重大な違いであるが、式作法に「父入」と「嫁行始」が加わったことも見逃せない。
「父入」は、息子夫婦の結婚後、その世帯に息子の父が初入するもので、息子の父が婚主の一員または関係者として登場したことは、これまでの婚姻史上なかった画期的なことである。「嫁行始(ゆきはじめ)」とは、正しくは嫁入りというべきで、嫁の夫家への初入である。
相互の父の登場と相まって、この期ごろから君主の出現が著しい。これは次の時期からは君命婚となり、さらに室町以後は君主による聴許制となる端緒であり、家父長と君主が家族と臣下の婚姻に干渉する時代への前触れと見てよい。
また下賜婚も多い。これは君臣の結盟を要請する社会的事情と、女性の地位の低下によるものである。(筆者注:下賜婚は、進上婚とは逆に身分の高い者から低い者へ娘を与えるもので、娘はお目付け役を兼ねていたであろう。)
部落内婚と遠方婚
地方では、長者館を中心に隷民化した一族や家人が、名や荘園や郷保等をめぐって部落共同体をつくり、部落民相互間には姉家督的婿取婚もあったが、若者組の群婚、無儀式の妻問婚、寄合世帯等、多種多様の部落内婚がおこなわれた。これらの部落内婚は、明治・大正ごろまで遺存し、相互の団結や群婚欲求が保たれた。
一方、部落の長者と部落民の間には階層分化が深刻化してきて、長者は部落民を婿とることも愉快でなく、息子を婿住みさせることもできない。従って、正式な婚姻の相手は、遠方のしかも同格な長者家に求めなければならない。しかし、格をめぐっての互いの不同意もあり、うまくまとまらない場合も出てきた。
(筆者注:何で「夜這い婚」は衰退したの?②で、明治以降、夜這い婚の解体過程で、富農層は同格の家との縁組を求めて村外婚になる、という記述がありましたが、すでに平安期からその動きはあったようです。)
その結果、高家の愛娘には、旅行中の貴族、勇士、来任の役人等を婿とることが流行した。これら婿たちは、後代のように妻子を連れて帰らないので妻子は田舎に置き去りになる。それを田舎の一族が盛りたてるという婿取り方式である。(筆者注:前期から続くいわゆる“長者家のむことり”。)
息子らは遠方への婿住みをやめ、自己部落から顔の良い娘を召し上げ、戦争では敵陣から美女を略奪し性生活をみたす。そして弱隣からはその娘を輿入れ式で進上させた。
読んでもらってありがとう(^_^)。応援よろしく♪ by岡
次回は擬制婿取婚で、原始婚も最終段階を迎えます。お楽しみに
- posted by okatti at : 2007年07月20日 | コメント (6件)| トラックバック (0)
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comments
>17人も子どもがいるある夫婦は、14人を養子に出している。(それなのに、彼らは4人の養子を育ててもいる!)
これには、ビックリですね。
適材適所に子供がいればよいと言う感覚は、自分の子供と言う私有意識が殆んど感じられませんよね。
日本でも、大正~昭和初期に、男の子が生まれないと親戚の3男を養子にもらうなどのことは良くあったそうです。これは子供に対する私有意識が低い以上に、「家」意識が強かった事によるようです。
現在のペット化する子育てとは雲泥の意識差があるようです。
koukeiさん、こんにちは。
>現在のペット化する子育てとは雲泥の意識差があるようです。
そうですね。
子供のとって必要な事は何か?子供を育てるとはどういうことか?など、これまでの子育てや親子関係の枠を超えて、改めて考えていかなければならないと感じています。
>その実現のヒントは母系社会の『みんなで子育て』にあるかも知れません。
そういった『みんなで子育て』って、やはり父系社会では実現できないものなのでしょうか?
確かに、父系社会の子育ってどのようなものなのでしょうか?
父系社会の中でも伝統的な生活様式を残している社会などは調べる必要がありそうですね。
ゆきさんの
>そういった『みんなで子育て』って、やはり父系社会では実現できないものなのでしょうか?
という疑問はかなりの難問で、今後我々に課された課題だと思います。
そのためにも、『みんなで子育て』が成立していた条件を取り出す必要があります。
それは第一に、母系制社会は女姉妹が代々家に残り、生産活動と子育てを共同で担い、共有財産を継承していく社会であること。つまり母系集団とは、『生産体であると同時に生殖集団』であるということです。そしてその主役は、母系でつながった女たちです。勿論、婿入りして来た男たち、および兄弟もそれぞれ役割はあります。
第二に、これら単位集団を包摂する地域社会(大集団)も、共同体として一致団結して外圧に適応していた闘争存在です。
日本の農村共同体は、単位集団が父系に転換しているので女たちの安心基盤としては弱いですが、生産体かつ生殖集団であることに変わりなく、地域社会も共同体的色彩が濃厚だったので、『みんなで子育て』ができていたのではないでしょうか。
現代は、生産体=企業、生殖=家庭というように分断され、地域社会も崩壊しているので、上記で見たような集団および地域社会をいかに再構築するかという課題になると思います。
つまり、生産体と生殖過程をどのようにリンクさせ包摂していくかという課題になり、そのためにも社会共認の形成が不可欠になると思います。
例えば、企業の保育場兼農園を農村に設け、共同作業かつ共同保育することは、一つの実現形態だと思います。
共同体社会と人類婚姻史 | 母系社会:サタワル島の子育て~『子どもはみんなで育てる』
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